ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

袈裟に尿かけられる嫌がらせ…真宗大谷派とパワハラ問題

2020年4月15日、京都新聞に次の記事が載っていました。

www.kyoto-np.co.jp

 真宗大谷派(本山・東本願寺京都市下京区)で働いていた嘱託職員が、上司や同僚から嫌がらせを受けたとして15日までに、同教団を相手取り、慰謝料など300万円の損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。
 訴状によると、嘱託職員は2013年4月から総務部兼内事部で主に筆耕業務に従事していたが、上司や同僚から「気持ち悪い字」と言われ、書いた紙を投げつけられたり、無視や、袈裟(けさ)に尿をかけられたりする嫌がらせを受けた。上司に相談したが改善に向けた姿勢がみえず、職員は抑うつ状態になって18年2月ごろに休職した。同教団は使用者責任があり、嫌がらせを是正する措置を怠ったと主張する。
 真宗大谷派は「事実関係に誤りがある上、原告の申し出には真摯(しんし)に対応し、職場環境の調整に努めてきた。裁判では、当派が認識する事実関係をもとに、宗派としての正当性を主張していく」とコメントした。 

関係者に聞いたところ、この「おしっこかけ事件」、おしっこがかかっていたのは事実だそうですが、加害については教団側は認めておらず、事実関係を裏付ける証拠もなし。「上司や同僚」は特に何の処分も受けてないとのことでした。

大谷派では以前にもパワハラ問題が起きています。

www.sankei.com

これは残業代の未払いが直接の問題ですが、このことを訴えた職員に対してパワハラが起きています。

 大谷派は28年10月、未払い残業代の精算に応じることで男性と合意したが、男性は上司から暴言を吐かれたり机をたたいて怒鳴られたりし、内部のハラスメント防止委員会が12月にパワハラ被害を認定。一方で雇用契約を更新しないと雇い止めを通告され、今年3月末で退職した。

これについては被害者が講演し、その内容が書籍化されました。

www.amazon.co.jp

この事件では暴言を吐いたと言われる上司は特には降格などの処分もなく、その後も異動先で職員にパワハラで訴えられたと別の媒体で報道されています。

また、人権担当部署でも。

www.kyoto-np.co.jp

この他、認定はされなくても、教団内でパワハラの訴えがされたとの情報はいくつか入ってきています。

真宗大谷派は私の所属する教団です。そして私自身この教団で短い間ですが嘱託職員の立場を頂いていたこともありました。この教団に関わってきた人ならわかってくれると思いますが、うつ病などの心の病で離職したとか休職したとの話をやたら多く聞きます。もちろん統計をとったわけではありませんが、実感としてそう感じる人は少なくないはずです。

以前に元海上自衛官の方に、護衛艦でいじめが起きるのはなぜなのかという話を聞いたことがあるのですが、強い規範のある閉じた集団では、その規範以外のことへの善悪の意識が希薄になるのではないか、といったことを言われていました。

つまり、国と国民を守らなければならない、という「絶対的な正しさ」を共有する集団は、それ以外のこと、例えば目の前の人の苦しみや悲しみ、仕事のできない人への思いやりが希薄になるというのです。

これは、体育会系の部活や、理念の強い会社で起きるハラスメントの構造と似ています。試合に勝つ、利益を上げる、会社の理念を達成する、といった「正しさ」の前に、それ以外の善悪の判断が上書きされてしまうのです。

宗教団体でもこうしたことは起こりがちだと思います。前日の残業代不払いを訴えた職員へのハラスメントでは、被害者は「信仰心がないから残業代を請求した」と言われたことを証言しています。強い宗教的な理念が存在すると、その理念を達成するための行為が正当化され、それに従うのが当然であり、そうでないものは改心させるか、あるいは排除していいとの思いに繋がります。そして「正しい」宗教心のもとにやっており、それを理解できないのは「信仰心が足りない」のですから、加害者には罪の意識はまるでないのです。(この件でも加害者の上司は、事あるごとに「自分は悪くない、悪いのは被害者やマスコミ」といった発言を繰り返していたと聞いています。情の厚い熱心な人だと聞いています。だからこそ、相手のためにやった、という思いを否定できないのでしょう)

「宗教」という正しさは、ときに残酷です。

私達の教団は、

一切の差別をなくすことを目指しているのに、宗派主催のパネル展示から「経典における女性差別」というパネルを圧力をかかけて降ろさせ、

人間同士の争いや戦争を悲しみながら、自分たちの教団から袂を分かった人たちに何度も訴訟を起こし、

絢爛たる法要や、熱心に有名な知識人を呼んでお金のかかったイベントをする一方、過疎や貧困で潰れていく寺院は放置されています。

ただ、だからといって「こうなればいいのに」と思っていることが、様々な利害関係や伝統や法規にがんじがらめになっており、容易に実現できないことも私は知っています。宗教としての「正しさ」を背負うがゆえに出てくる自己正当化、その正当化された姿と現実とのギャップへの苦しみ。

私自身、新宗教出身という出目の問題もあるのでしょうが、この道に入って嫌な思いを随分としてきました。それは伝統と正しさを背負わざるを得なくなった人の苦悩が、異質な存在である私ににじみ出てきた結果なのかも知れませんし、あるいはこの集団への理解を拒み、順応できなかった私の非なのかも知れません。

今回の事件、「被害者が自分でおしっこをかけたのでは」との見方も一部ではされているようです。しかし仮にそうだとしても、被害者をそうさせるまでに追い詰めたものはなんなのか。また、この教団でこうまでして立て続けにパワハラ事件が表沙汰になるのは、どうしてなのか。

真宗大谷派は弁護士とともに争うつもりのようですが、そうまでして教団が守りたいものとは、一体なんなのでしょう。どうも、その前に振り返らなければならないことが、山のようにありそうですが。