ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

死について考える―遠藤周作

遠藤周作の「死について考える」を読んだ。遠藤周作は好きだったので随分いろいろと著作を読んだのだけど、こんな本があるとは知らなかった。ふらりと立ち寄った大垣市立図書館で、この本を見つけた。

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この本が書かれたのは1987年、遠藤が64歳のときになる。今の感覚で考えるとまだ十分に若い歳のように思うのだけど、病気がちだった遠藤にとっては違ったのだろう。

内容は他で遠藤が話したり書いたりしていることも多いのだけど、信仰と死の問題についてここまで赤裸々にまとめた本をみたことがない。

椎名麟三さんはプロテスタントですけど、洗礼を受けた時に、私に、

「遠藤さん、ぼくは洗礼を受けたから、これでじたばたして、虚空を摑んで、死にたくない、死にたくないと叫んで死ねるようになったよ」

と言ったんです。私には椎名さんの言うことはとてもよくわかる。自分の醜いことをどんなにさらけ出しても、神さまにはたいしたことではないということです。

うまく年をとって従容として死んで行っても、じたばたして死んで行ってもいいと今の私は思うんです。理性ではみにくい死にざまはしまいとして、それを実行しようとしても、意識下では人間はやはり死にたくないからです。神はそんな我々の心の底をみんなご存じのはずです。だから神の眼からみると同じなんです。じたばたして死ぬことを肯定してくれるものが宗教にはあると思うからです。

国木田独歩が植村牧師の前で、「祈れません。私には、祈ることが出来ません」と泣いたことについて、

(国木田)独歩が祈れませんと答えたのも、カトリックではよくわかります。祈れません、と言っても、それが既に祈りになっているのだから一向に構わぬ、と私は思うのです。

「苦しくて祈れません」
「不安で祈れません」
「もう絶望して祈れません」
「神様がいないような気がしてきましたので祈れません」
「こんな目にあわせる神様、とても祈れません」

というような祈れませんであっても、それは神との対話ですから既に祈りです。たとえ祈れなくても神がそれを大きく包んでくれるというような感じがします。椎名麟三さんに聞いたわけではないけど、椎名さんはたとえ神を呪うようなことを口にしても、神にすべてを委ねるという信仰を持たれたのだと思います。

独歩が、祈れませぬ、と言って哭泣したのが私にはわかるような気がします。そう言ってもそれを救ってやるのが本当の宗教だと思います。

祈れませんという言葉が神との対話であり、祈りだというのだ。この言葉は浄土真宗を長年求めている自分の心を打つ。浄土真宗の信も、信じられない、念仏も出来ない、浄土を求めてもない私の事実の上に開かれるものだから。疑って救いをはねつけるままが如来との対話なのだろう。

 鴎外が死の間際になって、「助けてくれ」ってわめき散らしたりすることは、鷗外の文学からは考えられまん。しかし、日本の死の美学に沿った立派な死に方ができると言える自信のない私のようなものからは、下司のかんぐりかもしれませんが、従容として死についた人の心の中では、煩悶苦悶がなかったとは言えないと思います。それを隠して従容として死んだ人が多いのじゃないでしょうか。

しかし、この鷗外のように、日本の死の美学によって賞賛されるような死に方のできない人間、迷いの深い人間、悪いことをしている人間、従容として死ぬことを立派だと思っているけれどもそれができなくて、自分の煩悩や執着がむき出しになる可能性が強いと思っている人間、そういう人たちのほうこそ仏教やキリスト教を勉強したりすることが多いのだと思うのです。しかし宗教を勉強し、宗教を信じ、理屈の上ではある程度の確信が持てても、いざ自分が死に直面したりすると、何も勉強しなかった人よりも理屈の上ではわかっていたことが音を立てて崩れて行くということがあると思うのです。今まで二十年間、あるいは三十年間勉強して来たことが何だったのかと、周章狼狽してしまうことがあると思うのです。今まで絶対に別れるなどというはずがないと思っていた女房から、

「長いことお世話になりました」

と離婚を宣告されて仰天する男と同じように、死の恐怖や死の苦痛が来た時、キリスト教の信者や篤信の仏教徒のほうがかえって混乱したり、動揺したりすることがあるかもしれません。亀井勝一郎さんが、

「信仰のことが念頭から離れられない人間ほど、死の恐怖の前に狼狽するかもしれない」

と書いているのも、私にもよく納得がいきます。死を前にして周章狼狽するのを、それでいいのだと言えるようになるのが信仰の第二段階だと思います。

これもわかる。何十年仏教を学んでいても、おそらく死ぬときには何の役にも立たない。迷いが深いからこそ求めるのに、求めれば求めるほど、結局は狼狽して死ぬしか無い自分が見えるばかりになる。そう思ってはいても、どこか仏教で生や死の受容を得られるように思って、いまも追いすがっているのだ。

出家とその弟子』を書いた倉田百三浄土真宗を信じていたはずですが、死の床でどうしても浄土が思い浮かばぬと嘆いたそうです。彼はそういう人だったからこそ、その書いたものが人に訴える力があったのじゃないでしょうか。浄土が思い描けない人間だからこそ、自分を説得し、浄土とはこうだと一所懸命に書いた。だからそれが 読むものへの説得力になったんじゃないでしょうか。私自身も小説を書いていて、そう思います。私は自分の心を説得するために一所懸命になって書いていますから。

キリスト教の信者になったものは、信仰の確信を持っているという誤解があります。「信仰というものは、九十九パーセントの疑いと、一パーセントの希望だ」と言ったのはフランスの有名なキリスト教作家ベルナノスですが、私は本当にそうだと思うんです。疑いがあるから信仰なんです。浄土が思い描けないということが信仰がないっていうことじゃないんです。宗教に何の関心もない普通の人だったら、「浄土を思い描けないがどうしよう」などと言わないでしょう。信仰があるからそんなことを口にするのです。倉田百三が浄土が思い描けないと言ったことは、倉田百三にとって恥でもなんでもない、と私は思います。

疑いがあるから信仰。信じたいという思いがそのまま疑いなのだが、かと言って信じたいという思いも疑いも、どちらも捨てることが出来ない。

私は大抵の人間は救われるという考えでおりましたけれど、アウシュビッツにおける彼らの行為の跡を実際に見て、顔をそむけたくなるこのような残虐を犯した人間は果たして救われるのか、と日本に帰るとすぐ、ある神父に聞きました。その神父は、彼らの人生全体の判定を誰ができるか、その男が息を引きとる瞬間に、自分は悪かっ たと心の底から思った時に救われないと誰が言えるか、と答えました。あんなに残酷なことをした人間をも救うほどに、神の愛は広いのか、と私が言ったら、その神父は、 そうだと言いました。私はその時ガンと頭をうたれた気になりました。

それでは殺された人たちは浮かばれんじゃないか、と私は反駁したのです。

殺された人たちの倫理や論理を、私たちが自分たちの倫理や論理で判定するから浮かれぬと考えるのであって、殺された当人たちの気持ちや論理をどうしてわれわれが言えるのだ、と神父は言うのです。

その時、私には殺された人たちの身になって、殺した人間も神に救われるというのはあんまりだ、と考える一方、そのくせ神父の言うように、殺したほうの人間が救われるのを認める気持ちもどこかに起きました。

幸不幸・善悪の問題。私達は、わからないのだ。わからないものだから、それを「大いなるもの」の無限の受容に委ねるしかない。

こはちょうど先日、歎異抄13条の法話でお話したところです。自分の話で恐縮ですが、貼っておきます。

youtu.be

本当に人生の外には沈黙だけしかないのか、本当に永遠の沈黙だけだろうか。
さきほどものべたように「完黙」にはよく「氷のような」とか「永遠の」という俗っぽい形容詞がつきます。

しかし沈黙にもいろいろあります。まったく何もないナッシングの沈黙、空虚そのものの沈黙――それとは別に、フランスの有名な作家アンドレ・マルロオがいみじくもその大著の表題につけた『沈黙の声』の沈黙があります。それは沈黙というよりは「静けさ」ともいうべきものかもしれません。その沈黙は決して氷のように冷ややかなものではなく、呼びかける声がするのですが、我々人間にはまだそれが聴こえない。その言葉を徴以外には解読することができない、そんな沈黙があり、静けさであります。

だから、私たちは必ずしも死の沈黙を絶対に無の沈黙・消滅の沈黙と重ねあわせることはできない気がするのです。茶室に正座している人は、茶室の静寂を内容空虚な静かさとは思いません。その空間のなかには、宇宙の生命にふれる何かが含まれています。神堂の静かさや無をたんなる虚無と思われる方はいないでしょう。死の直後、あの静かさ、一人の人間が息を引きとった瞬間の静寂。その静寂の向こうに、次の世界が広がっている、これは私自身の感覚ですから、ほかにどう説明のしようもありません。

私の先生である故大峯顯師なら、これを念仏を言うのかも知れないと思った。ただ自分にはわからない。次の世界などあると言えるのだろうか。ずっと浄土の教えを聞いているのに、まだそこがわからないでいる。

私は老年とは若い時や中年の時とはちがって、何かにじっと耳傾ける時だと思っているのです。そ の何かとはやがて旅だって行く次なる世界からかすかに聞こえてくる音なのです。

私も六十五歳になったら、その音をよりよく聞くために仕事を整理しようと思っています。六十五歳になったらと考えるのは、私は少なくとも七十五歳くらいまでは生きているだろうと漠然と信じているからにちがいありません。明日にも死が訪れるかもしれないと考えたら、六十五歳になったらなどと考えないはずです。

死に支度いたせいたせと桜かな

この句をよんだ一茶もまた同じ思いをしていて、自分に死に支度を促していたのでしょう。

 遠藤がこれを書いたのは64歳。その後いくつかの大病と手術を繰り返し、73歳で亡くなった。