ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

親鸞会の最後の新勧合宿

昨晩、新勧合宿の夢を見た。新歓合宿じゃなくて、新「勧」合宿。歓迎じゃなくて勧誘。親鸞会の学友部でゴールデンウィークに行われていた合宿で、4月に勧誘した新入生を山奥の合宿場などに連れて行って、5~7日くらいの日数拘束して、教えを叩き込む。そういうものである。

学友部の新入生勧誘は、全てこのゴールデンウィークの合宿に向けて計画が立てられていた。合宿の参加人数の目標が3月にたてられ、いつどこで勧誘して、どんな行事を企画して、どんな話をするかがさかのぼって決められた。幹部は一ヶ月間、この合宿参加の確約数という数字にとことんこだわりながら、新入生の状況を一人ひとり把握し、死にものぐるいの活動をすることになる。

そんなことを、学生時代に4回、親鸞会の講師になってから6回やった。私は学友部の担当ではなかったのだけど、毎回手伝いに呼ばれて、ゴールデンウィークまでの間、学生の先頭に立って勧誘活動の指揮をとり、合宿では講師として話した。合宿所は最初は山中湖で、次は尾瀬、最後はどこだったか忘れたが、長野の青年の家的な施設だったと思う。

昨晩見たのはその時の夢だった。長野の合宿所で一生懸命に講義をしている夢だった。合宿の効果は絶大だった。若い人が一週間近く寝食をともにして、人里離れた場所で毎日教義を聞いていれば、どんな人でも簡単にひっくり返る。人の精神なんてそんなものなのだ。簡単に影響されるし、すぐに染まる。自分はそうではないと思いこむことはできても、現実にはそれぞれの環境の中で誰しもがなにかに染まっている。

合宿や、大きな集会、ありったけの感情を込めた話、真剣な眼差し、そんなもので、いとも簡単に感動で胸が一杯になる。あらゆる宗教や政治がその手のものを利用する。私がいる真宗大谷派だって例外じゃない。親鸞会ほど露骨にやらないだけで、似たようなことをやっているのだ。うちの宗派の大法要だけは違うって? それならナチスの大会の映像でも見てみたら良い。荘厳さの演出、権威者の演説、会場を埋め尽くす人、それに酔う人たち。その規模や出来に差はあっても、方向性は大して変わらない。

問題はそうした影響によって受け付けられた価値観を、なにかの超越的な力による信仰の表れと勘違いすることだ。私自身も親鸞会にたときは、次々と目の色が変わっていく新入生を見て、これが阿弥陀仏の本願力だと思っていた。その背景には、自分に生じた信仰が阿弥陀仏の本願力によるのだと思いたい感情がある。これが単なる環境による影響だとは受け入れたくないのだ。

当時の私は、阿弥陀仏の本願をこの新入生に伝えるんだと必死に活動していた。でも、途中で気づいてしまったのだ。私は結局、こうした影響力の渦の中に飲み込まれただけの人間であって、親鸞会という教団が真実である証などどこにもないのではないかと。そう思って親鸞会からの脱会の準備を進めていた最後の年に、例年の通り合宿の講師に呼ばれた。こんな欺瞞に満ちた教団やめてやると思っている人間が、学生を前にして親鸞会の教義を一週間近く説かなければならない。

そんなこと出来るわけ無いと思ったのだけど、恐ろしいもので、ちゃんとできてしまった。思ってもないこと、信じてもない宗教の話を、人はできてしまうのだ。最後まで、計画通り、きっちりと。そのことが自分には恐ろしかった。

そしてそのときに私の話を一生懸命に聞いていた人たち、私の話を新入生と復習していた先輩の学生たち、そうやってみるみる変わっていった新入生、それらの人が未だに脳裏に浮かんでしまう。あの最後の合宿。気分転換に外の広場で講義をしたり、森を散歩したり、夜冷えたときにスチームの暖房がなかなかつかずに難儀したことや、山奥で携帯の電波が届かないので、電波の届く丘までみんなで登って一斉にメール受信したこと。そんなことが、いまも鮮明に記憶に残り、たまにこうして夢を見る。

目の前の人を最後まで親鸞会に引っ張りながら、なお私は裏切ってやめていくのだと。その苦悩がもう15年も経つのにこうして私を苦しめていく。

これは、なんなのだろう。いつ消えてくれるのだろうか。