ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

私達は陰謀論と向き合うことができるか

最近、陰謀論にかかわる相談を受ける。陰謀論FacebookTwitterなどのSNSを観ると頻繁に目にするが、私に寄せられるのは家族がそれにハマってしまったとの相談である。SNSではアンフォローするなりブロックするなりすれば実害はないが、家族となるとそうは行かない。まして、最近はコロナやワクチンについての陰謀論が目に付き、この陰謀論に染まった人を近くに抱えると、命に関わる問題ともなりうる。

私自身はカルト宗教についての相談を受け続けて15年になるが、この問題はカルトとかなり似ていると思う。その経験から今の思いをまとめてみた。

陰謀論者は不真面目ではない

この課題から思い出すのは、2011年の福島第一原発の事故での経験である。当時私はまだ僧侶になりたてであったが、私のいた教団では、全く科学的な事実に基づかない、極端な放射線などの健康被害を語る人が多くいた。事故からの汚染が今後私達にどのような影響を及ぼすかは不明な点が多く、不安はわからなくもなかったが、あまりに偏りすぎているように思った。

その誤解を解こうと、これらの人と膝を突き合わせて長く話したが、完全に徒労に終わった。なぜなら、公開されている測定結果や、長い時間をかけて明らかになった科学的な事実を話しても、彼らには全く受け入れられなかったからだ。

彼らにとってのそれは政府や東京電力によって操作されたものであり、信用できないとされていた。彼らは多くの専門家が関わった発信源のはっきりしているデータより、誰が作ったのかも不明なネットの情報をずっと重視した。彼らは実にまめにそれらのネットの情報を集め、危険性を発信し続けた(煽ったと言ってもいいかもしれない)。

なら彼らは不真面目だったのか。そんなことはない。彼らは実際に現地で放射能の恐怖に怯える人に向き合い、移住を手伝い、移住できない人に対しては、西日本の「汚染されてない」農作物を集めて、現地に地道に送り続け支援をした。少なくないお金と時間を費やして、自分を犠牲にしてやりつづけた。

私はとてもこんな事はできないと思った。本当にすごいと思った。私なんて彼らに比べたら何もしていないに等しい。真摯で真面目で利他的なのだ。そして賛同者が集まり、現地の人々の苦しみを実際に聞いて応えているから、更に自分たちのやっていることの正しさを疑えない。

これは、私が向き合ってきたカルト宗教の信者たちも同様で、彼らの多くは真面目に人を救おうとして信仰に向き合っているのだ。地下鉄サリン事件の実行犯であった林郁夫氏がもともと医師であり、人を救いたくても救えないこと悩み、その思いからオウムの教えに関心を持ったことはよく知られている。私自身が会ってきたアレフの信者も、人を助けたいとの思いから入信した人が多かった。

陰謀論者はその説をSNSなどで拡散したり、周囲の人を積極的に説得する傾向にある。切ないほど一生懸命だ。陰謀は自分の頭の中だけにしてほしいと思うかもしれないが、看過できない「悪とその陰謀」の存在を知って、どうにかしてこの「真実」を人に伝えて、陰謀を阻止したいとの思いがあるのだろう。みんなを助けたいのだ。助けたいから衝突も辞さずに伝え続ける。

陰謀論者はちゃんと考える力を持っている

陰謀論者が不真面目でないのなら、彼らには思考力がないのだろうか。現実にそのような印象を持つ人は多いだろう。知的に劣っているから、陰謀論などに騙されるのだと。

しかし実際のところ、理工系の大学教授など科学的な思考を十分に学んだ人や、大企業で管理職や研究職を経験してきた人が、陰謀論を積極的に発信している様子を見ることができる。先日も私と同年代の有名私立大の大学教授が、ワクチンにおける陰謀論的なデマをSNSで拡散していて驚いた。

私が向き合ってきたカルトも同じだった。しっかりした学歴を持ち、知的探求の営みを十二分にしてきた人が次々とカルトの世界に入っていった。考える力がないのではなく、考える力を十分に持ちながら、なぜ陰謀論やカルトの教義を信じるのか。

私の友人が一時期いわゆる「ネトウヨ」(この言葉は侮蔑を含むので使いたくはないが、あえて)になった事があった。彼とは従軍慰安婦南京虐殺について随分話し合い、もちろん最終的に合意には至らなかったのだが…感心したのは、彼らの言う「従軍慰安婦南京虐殺否定論」にはそれなりの根拠があるのだ。決して捏造とデマが大半を占めているわけではない。

ならばどうして否定論者になるのか。私達は歴史的な事実は一つであって、その事柄の周辺の証言や資料も、常にその一つの歴史的事実に合致すると思ってしまう。でも、実際はそうではない。特に近代史は様々な立場からの証言や資料が一つの事柄の周囲に交錯しており、それらが別々の方向を向いているように見えることは珍しくない。

となると、様々な立場における「ファクト」を、一定の主張に沿うように取捨することで、虐殺を否定する根拠だけを揃えるのはそう難しくはないのだ。

ワクチンなどの陰謀論も、あからさまにデマや荒唐無稽としか言いようのないものもあるが、実際のところ大半はそれなりに「らしい」裏付けが存在しており、そうでないデータや論理は「陰謀」というフィルタで濾されてしまう。現代社会の様々な事象は高度に複雑化し、一人の人間が追いきれないほどの研究や考察で埋め尽くされている。そこから一つの「陰謀」を元にしたシナリオが生まれ、ネットの集合知によってそれらしい「ファクト」が発掘され、シナリオは強化され発展していく。疑似科学についても同様だろう。

これは陰謀論だけに起こる現象ではない。去年くらいに、どうして東アジアではコロナの感染が抑えられているかとの原因として、BCG接種率など様々な仮説が提示され随分広がった。「私達は大丈夫」という希望的なシナリオが集合知によって強化された出来事である。もう今やそんなことを言う人もいなくなったが、自分たちが求める結果に合わせて根拠を集めていくのは、私達もよくやることだ。

ナチスはかつてアーリア人こそが最も優れた人種であるとしたが、それを多くの科学者が研究によって裏付けようとし、それはナチス民族浄化の根拠として利用された。彼らは真面目に科学者としての矜持を持ってそんなことをしていたのだ。

科学や歴史や、いや経済も、本当にそれを知ろうとすると、それらを説明する事柄があまりに複雑に絡み合っている事実を知ることになる。そうなると私達はそれらを取捨して明快に説明するための「シナリオ」が欲しくなる。

しかし本当は、複雑なものを明快なシナリオに再編するのではなく、それを複雑なままに受け取り、新たな事実の発見により、どんな定説も覆される可能性を持つことを自覚するのが本当の知的営みであり、陰謀論の対局に位置する見解であろう。しかしそれはますます難しくなっているように思う。

感染初期に語られた、「新型コロナウィルスは武漢のウィルス研究所から流出して、地中国共産党はその事実を隠蔽しようとしている」などという情報は、出始めのときはこれこそ分断を生む陰謀論として退けられていた。しかしそれが今になって再び注目を浴びるなど、一体誰が予想し得ただろうか。

私達は本当に正しいのか

天動説(地球中心説)という宇宙論がある。地球を中心にその周りを太陽や惑星がまわっているとの見方だが、おそらく本稿を読んでいる人の殆どはこれは古いパラダイムであり、地動説(太陽中心説)こそが正しいと思っているだろう。

しかし、実際にこれを観測によって確かめた人はごく僅かだ。一般の人にとっては、そもそもどんな観測をしたらそれが明らかになるかもわからないだろう。

よくある誤解として、当時のキリスト教的世界観と天動説の親和性が高いから天動説が信じられたのだと思われるが、実際はそれだけではない。最も大きな理由は、天動説が当時の観測技術で見える宇宙を最も合理的に説明できたからである。当時真面目に観測して考え尽くした結果がこうだったのだ。

こんな基本的な宇宙論すらその背景は複雑である。まして現代語られる社会的科学的事象を観る時、ほとんどの人はその真偽を自ら考えて結論など出しておらず、「教科書にのっていて、テレビで大学の先生がそう言っている」くらいの理由しかなかったりする。私達は陰謀論者は限りなくインチキであり、彼らと比べて全く自分らの方がずっと正しい思考をしていると思っているが、実際はこんなものだ。

となると、中部大学の元大学教授がYoutubeで配信する謎の情報を血眼で見たり、あるいは誰が書いてるかわからないブログの情報を熱心に収集している陰謀論者のほうが、本当は考えているのかも知れない。だからこそ彼らは私達を「政府やマスコミに騙された哀れな情報弱者」扱いするのだ。

真面目にしっかり物事を見たいと思っている人が陰謀論にハマってしまう理由は、このあたりにあるのではないか。

まず自分が揺らぐ

以前にあるカルトに入った信者が私のところに相談に来て、どうして自分がその教団に入ったのか、その教団の教えはどんなものか、どうしてそれを信じるのかを4時間位一人で喋り続けたことがある。

私はそれを(内心うんざりしていたことは認めるが)一生懸命聞き続け、頷いて、わからないところを丁寧に質問した。そうすると彼は突然泣き出し、今まで家族も友人も誰も聞いてくれなかった、教団の人以外で初めて聞いてくれたのだと言っていた。その後も彼とはメールで連絡を取り続け、数年ののち脱会した。

彼の家族や友人は、彼は教団に騙されていると決めつけ(無理もないことであったが)、教義を話すとすかさずその矛盾点を指摘し、脱会を説得した。次第に彼は教団の人としか話をしなくなり、教団に矛盾を感じたときには誰も相談できる相手がいなくなっていた。

私はそんな人を何人も見てきた。

私達はファクトを持って陰謀論をねじ伏せられると思っている。しかし、100%あなたは間違っているという主張と、100%私は正しいという主張がぶつかっても、そこに対話は生まれない。

本当は、私達が正しいと思っていることは、いつひっくり返るかわからないし、私達が彼らと比べてより理性的で論理的だと言えるわけでもない。だからこそ、ほんの少しの歯車の掛け違いで、同じようなことを信じていたかもしれない。陰謀論に向き合うのは、「正しさ」ではなく、私もまた間違うかもしれないし、間違っているかもしれないとの思いだと思う。

もともと、科学はそういうものだ。矛盾と思われるかもしれないが、将来新たな理論や観測結果に覆される可能性を持つものこそが、科学的なファクトである。陰謀論にはそれがない。理論に合致しない情報があっても、この情報は陰謀だ、というフィルタで濾すことができるから、どうやっても覆る可能性を持たないのだ。

だから陰謀論と科学的ファクトの違いは、正しいか正しくないかではない。それが覆る可能性をその理論の中に持っているかである。

とは言っても、実際に陰謀論を聞き、自分の正しさを疑うのは大変すぎると思う。それが家族ならなおさらだ。私に相談をしてきた人は、家族が陰謀論をずっと主張し続けることに疲れ果てていた。そんな人に話を聞いてあげてほしいと言うのは酷すぎるし、実害も多いだろう。だから相手の主張を断固として拒否して聞かないことも、現実的な解決策かもしれない。

ただ自分はカルト宗教の信者との対話を長年やってきて、自分が揺らぐことで相手もまた揺らいでいく経験を幾度もしてきた。困難ではあるが、なんとかそうやって向き合うことはできないか、模索している。

ああ、もっと率直に書いたほうがいいだろう。もちろん陰謀論のバカバカしさを説くのは大切なことで、これから陰謀論に染まる人を確実に減らすだろう。でも一旦陰謀論に染まった人との対話の道においては、あんなのウンコでインチキだと書いて言って戦っても何も得られなかった。きっとそうじゃない道があるはずだと思っている。だから、私は、クソみたいな陰謀論をしつこく拡散する人をバカにし、見下す自分といま必死に戦っているのだ。