私は十五年ほど前から、真宗大谷派という教団に身を置いています。
真宗大谷派には、教団の中心的な研修施設として「同朋会館」があります。そこには全国各地から門徒の方々が「奉仕団」として集まり、仏法の話を聴き、座談をし、清掃奉仕をしながら、数日間をともに過ごします。私自身も、これまで何度も同朋会館を訪れ、その場に身を置いてきました。
同朋会館では、当然のこととして飲酒は禁止されています。喫煙についても、所定の場所でのみ認められています。宗派の研修施設であるという性格から考えても、また現代社会における安全管理や公共性の基準から考えても、これはきわめて当然の規則です。入館時にはそのことが案内され、参加者はその規則に同意したうえで研修に入ります。
ところが現実には、その禁酒の規則が厳格に適用されるのは、ほとんどの場合、奉仕団の参加者に対してだけです。
「補導」と呼ばれる、奉仕団を指導し、生活を支え、研修を世話する立場のスタッフがいます。補導は職務としてその場に関わっており、もちろん有給の立場です。しかし、その補導たちが、しばしば同朋会館を飲酒の場としてきた現実があります。
補導仲間で会館の中で酒を飲むこともあります。研修中であるにもかかわらず、仕事を放り出すように外へ飲みに行くこともあります。翌日の晨朝、つまり朝のお勤めに、二日酔いで酒の匂いを漂わせながら参加する人を見たこともあります。
もちろん、多くの人が関わる場であれば、規則を逸脱する人がまったく出ないとは言えないでしょう。しかし、この問題は単なる個人の逸脱ではありません。現実には、補導の飲酒はほとんど一つの文化のように定着してきました。補導の人たちが同朋会館に集まり、補導自身の研修会を行う際には、たくさんの酒が持ち込まれ、そのまま宴会が始まることも珍しくありません。研修の講師が、ルールを破って飲酒したことを武勇伝のように講義中に語ることもあります。悲しいことですが、それが現実です。
このような状況に対して、「これはおかしいのではないか」と声を上げた人は、私の知る限りでも何人かいました。しかし、その声が真剣に受け止められたとは言いがたいのです。むしろ、「そんなことは当然ではないか」と言わんばかりの対応をされたり、逆に問題を指摘した側が非難されたりすることもありました。その結果、居場所を失っていった人の姿も、私は見てきました。
この問題は、単に「酒を飲んだ」「規則を破った」というだけの話ではありません。
同朋会館とは何のための場なのか。補導とは、いったいどのような責任を負う立場なのか。参加者には禁じられていることが、なぜスタッフの側では当然のように許されてきたのか。そして、そのことを「おかしい」と言う人が、なぜ逆に居づらくなってしまうのか。
そこには、真宗大谷派という教団が抱えている、より深い問題が表れているように思います。
少し長くなりますが、同朋会館における補導、すなわちスタッフの飲酒問題について、私なりに論点を整理し、皆さんに問題提起をしたいと思います。
1 規律の二重基準・言行不一致の問題
一番はこれです。同朋会館では、研修者に対して飲酒が禁じられています。にもかかわらず、その研修生活を支える立場にある補導が飲酒しているとすれば、そこには明らかな二重基準が生じます。
研修者には規律を求めながら、補導は内輪の慣習として例外的に飲酒していることになります。これは、「支える側は許される」という特権意識につながり、研修施設としての規則の正当性を損ないます。
2 補導の責任と安全管理の問題
補導は単なる参加者ではなく、研修者の生活を支え、相談に応じ、場の安全と秩序を保つ役割を担っています。
研修中には、急病、精神的な不安、参加者同士のトラブル、夜間の相談などが起こる可能性があります。例えば夜間に急病人などが出たときに、補導が飲酒していたら致命的な対応の遅れにつながる可能性があります。
3 同朋会館の理念との矛盾
同朋会館は、単に教義を学ぶ施設ではなく、生活をともにしながら、「同朋」として仏法を聞く場であるはずです。
しかし、研修者には飲酒を禁じながら、補導側が飲酒を続けているなら、そこには「同朋」ではなく、上下関係と内輪の特権が現れていると言わざるを得ません。
同朋会運動が問うてきたのは、権威主義や差別性、建前化した宗教性ではなかったでしょうか。にもかかわらず、補導自身が「自分たちだけは例外」というあり方を続けるなら、それは同朋会館の理念を内側から空洞化することになります。
4 内輪文化・組織の自浄能力の問題
補導の飲酒が後を絶たない背景には、「昔からそうだった」「少しくらいならよい」「懇親も大事だ」という内輪のなれ合い文化があると考えられます。
問題を指摘する人がいても、「細かいことを言うな」「空気を読め」「場を壊すな」と受け止められるなら、その組織は自分たちを問い直す力をまるで失っていると言わざるを得ません。
5 問題飲酒・依存症への無理解
同朋会館に来ると飲酒をやめられない人がいる場合、それは単なる酒好きではなく、飲酒のコントロールが難しくなっている可能性があります。にもかかわらず、補導の研修会で当然のように酒が出るなら、教団自身が依存を助長する場を作っていることになります。
これは本人にとっても、周囲にとっても危険です。宗教教団であるなら、人間の弱さや依存の問題にもうすこし敏感であるべきです。
6 飲酒が引き起こす社会問題への無関心さ
この問題は「同朋会館の規則に違反している」というだけでなく、飲酒という行為が社会的にどれほど多くの問題を生んできたかへの自覚がない、という問題でもあります。
アルコールは、個人の健康問題だけでなく、事故、暴力、家庭問題、職場トラブル、ハラスメント、貧困、孤立などと深く結びついています。
ですから、宗教的研修の場で飲酒を軽く扱うことは、単に「ちょっと羽目を外した」という話ではありません。飲酒によって苦しんできた人、家族の酒害に傷ついてきた人、暴言や暴力やハラスメントを受けた人、依存症から回復しようとしている人が、その場にいる可能性があります。そうした人たちにとって、補導が当たり前のように飲酒する場は、安心して身を置ける場ではなくなります。
大谷派は、社会的差別、戦争責任、被差別部落、ハンセン病、靖国、原発、貧困、ジェンダーなど、さまざまな社会問題に向き合う言葉を持ってきました。しかし飲酒については、批判的に見つめる視点がほとんど存在しません。
7 飲酒環境を美化する問題
さらに問題なのは、大谷派では飲酒が「腹を割って話す場」として美化されやすいことです。しかし、それは本当に聞法の場にふさわしいのでしょうか。
酒が入らなければ本音で語れない。
酒席がなければ関係が深まらない。
飲むことで仲間意識を確認する。
こういう文化は、実はかなり排他的です。飲めない人、飲まない人、酒害の経験がある人、依存症から回復中の人、未成年、若い参加者、女性、ハラスメントを警戒する人を、静かに周縁化して排除します。
つまり、補導の飲酒問題は、酒を飲む人の自由の問題ではなく、飲酒文化によって傷つけられる人の存在を見ていないという問題です。
そして同朋会館が本当に「同朋として出遇う」と言うなら、飲酒をめぐる社会的加害性にも敏感でなければならないはずです。
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以上、私なりに論点を整理してみました。
飲酒の問題は、単に個人の嗜好や節度の問題にとどまるものではなく、ハラスメント、暴力、依存症、排除、場の安全性など、さまざまな社会的問題と深く関わっています。だからこそ社会は長い時間をかけて、飲酒がもたらす影響と向き合い、そのあり方を問い直し、環境を整備してきました。
しかし、少なくともこの問題に関して、真宗大谷派は全くといっていいほど向き合えていません。原発や差別や靖国といった問題への熱量と比べると、ほとんど無関心といってもいいくらいです。
この小論が、同朋会館に関わる皆さんにとって、補導のあり方、研修の場の安全性、そして「同朋」とは何かを考え直す一つのきっかけとなることを願っています。
そして、この問題について、誰かを排除したり責め立てたりするのではなく、健全で率直な議論が起こることを、心から願っています。

