1 人権によって仏教を問うのか、仏教によって人権を問うのか
真宗大谷派の研究誌『教化研究』第176号の「宗教と人権」特集に掲載された、「仏教的人権概念の創案にむけて」という巻頭言を読んだ。仏教の立場から「宗教」や「人権」という言葉を問い直し、そこから新しい人権概念を構想しようという内容である。
これに私はかなり強い違和感を覚えた。その違和感を端的に言えば、これが「人権によって仏教や宗教教団を問い直す」のではなく、「仏教によって宗教や人権の意味を問い直す」方向へ進んでいることにだからだと思う。この違和感をなんとか言語化してみたい。
2 「われわれは普通の宗教ではない」という自己特権化
まず思ったのが、この部分である。
現代では「宗教」という言葉によって、「浄土真宗」を正しく表現することはできないのではないかと危惧されるのである。
「宗教」という近代的カテゴリーでは浄土真宗を十分に捉えきれない、という学問的な議論と、「浄土真宗は普通の宗教とは違う」という理解は同じものではない。しかし、宗教団体自身が「宗教という言葉ではわれわれを正しく表現できない」と語り始めると、この二つは読者にとって近接したものとして理解される。
つまり、「われわれは普通の宗教ではない、特別な宗教なのだ」という自己特権化を感じてしまうのだ。こういう言説は私は大谷派でずいぶん聞いた。
これがさらに進めば、「通常の宗教団体に向けられる批判や基準を、そのままわれわれに適用することはできない」という発想にもつながりうる。もちろんそこまで明言しているわけではないが、自分たちが「普通の宗教」の外側にいるかのような自己理解が、この巻頭言には常に入り込んでいるように思う。
現実には真宗大谷派は、宗教組織が一般に持ちうる危うさから少しも自由ではない。むしろ宗教組織が陥りうる典型的な問題の多くがかなりよく揃っている。
宗祖という圧倒的な宗教的権威があり、僧侶と門徒という立場の違いがあり、寺院の経済的な格差や、衣の色で区別されるような階層もある。教団内部で長年用いられてきた独自の言葉遣いがあり、その言葉を身につけた者ほど発言の正当性を獲得しやすい。さらに、特定の家系と宗教的権威とを結びつける門首制度も存在する。パワハラ問題も起こしたし、差別の問題も未だに抱えている。小さな子供に帰敬式を受けさせることを推奨したりもする。
私は長年カルト問題に関わってきたが、どこの教団も「自分たちは宗教というカテゴリには入らない」と、それそれの理屈でいいたがる。そしてそう言うことによって、宗教そのものがもつ問題が自分たちとは無縁であるかのように振る舞う。
こうした「よくある宗教の振る舞い」に、この巻頭言がすっぽり入り込んでいるのは、ある意味では微笑ましい。しかし、大谷派が「宗教と人権」を論じる場で、わざわざなぜこれを前置きとして言わなければならないのかを考えると、ちょっとほっておくわけにはいかない。
3 「依存する宗教は偽物」という危うさ
巻頭言では、人間の不安への向き合い方について、
一つは不安そのものの元を尋ねる道と、もう一つは何かに依存して安易に答えを得ようとする道である。清沢の眼から見れば、前者が宗教、後者は似非宗教であるということになる。
と述べる。そしてさらに、
私たちが苦しみ悩みながら宗祖親鸞と共に学ぶ道を捨てて、その苦しみを和らげるために親鸞を絶対化し依存するならば、カルト教団に陥る可能性を拭い去ることができない。
という。
親鸞を絶対的な権威とし、思考を停止することへの批判はわからなくもない。宗教的権威への依存が、人を支配する仕組みに利用されることも現実にあるからだ。しかし、「問い続ける宗教」が本物であり、「何かに依存して答えを求める宗教」は似非宗教である、という区別はさすがに単純すぎる。
そもそも、人はなぜ宗教に向かうのか。人生について考え続けたいから宗教に向かう人ばかりではない。愛する人を失い、生きていけなくなった人もいる。病気や死を前にして、何かにすがりたい人もいる。自分の力ではどうにもならないと感じ、祈り、救いを求め、自分を何かに委ねる人もいる。
そのような人に向かって、「何かに依存して答えを求めるのは、本当の宗教ではない」と言えるのだろうか。そうした人々に向き合うことなく、「問い続ける」自分たちを上に置き、そうでない宗教のあり方を「似非宗教」だと机の上から蔑むなら、それは一種の懈慢界だろう。
問題は「依存するか、しないか」ではないはずである。何に依存しているのか。その関係の中で誰かが権力を握っていないか。そこから離れる自由はあるのか。疑問を述べたり、指導者を批判したりできるのか。宗教的な教義や権威を根拠に金銭や服従を要求していないか。
カルト性を論じるときに見るべきところは、ここであるはずなのだ。
また、「問い続けること」をドグマ化することにも問題がある。「答えを出すのではなく、共に問い続ける」という姿勢は、一見すれば謙虚である。
しかし、差別的な制度について批判されたとき、本当に必要なのは「この問題を私自身の問いとして受け止めたい」と言うことではない。責任を明らかにし、制度を変更し、再発を防ぐことである。結局、大谷派が人権的に批判されてきたのは、これができなかったからではないか。
大谷派は、問い続けているという姿勢そのものを絶対視し、いわばそれを「答え」にしてきた。しかし、「問い続けます」という言葉が、答えを出し、決断し、制度を変える責任を先送りするための論理に使われることはなかったか。
4 人権を相対化する前に、自分たちを人権で問うべきではないか
この巻頭言は、「人権」という言葉についても同様の相対化を行っていく。
現代社会では、
自分の思い通りにならないような場面で安易に「人権侵害だ」と訴えたり、
することがあり、「人権尊重」という言葉についても、
本来の人権概念の一部を都合よく使っている
場合があるという。
もちろん、不満がそのまま人権侵害になるわけではない。「人権」という言葉が不適切に使われることもあるだろう。しかし、「宗教と人権」を特集する宗教団体の研究誌が、まず心配しなければならないのは、「人権という言葉を安易に使う人」の方なのだろうか。
むしろ逆である。誰かが「これは人権侵害ではないか」と訴えたとき、「そんな大げさな問題ではない」「あなたの受け止め方の問題だ」と私たちは退けてこなかったか。組織の秩序や伝統を守るために、声を上げた人間の方を問題視してこなかったか。
人権という考え方の重要なところは、特定の宗教や思想の内部に入らなくても、「これは社会や人間に対してしてどうなのか」と問える点にある。これらを問うのに、「真の人間とは何か」という哲学的議論は必要ない。その人が親鸞をどれほど深く理解しているかも関係ない。
ところが、真宗大谷派の言説では、こうした問題がしばしば「自分自身をどう問うのか」という内面的な問題へ移されていく。だから残業代を求めた職員が出てきた時に、「そんな事をいうのは信心が足りないからだ」などと言ってしまう文化ができてしまう。
社会は人権について、様々な現実の問題に向き合いながら、具体的な議論をずっと続けてきた。それをすっ飛ばして、本来の人権概念だとかの話に置き換えたり、漢字の翻訳の話などに矮小化しないでほしい。
自分の中にある差別心についていくら問い続けても、差別を生み出す制度や構造が残っていれば、差別は再生産される。権力関係をそのままにして、「人間とは何か」を問い続けても、権力関係はなくならない。
人権という概念の重要な役割は、そうした精神論からいったん距離を取り、「具体的に何が行われているのか」を問うことにもあるのだ。
5 門首制度には、なぜ仏法の眼差しが届かないのか
そして、この巻頭言が『教化研究』の「宗教と人権」という特集の冒頭に置かれていることを考えると、どうしても気になることがある。自分たちの教団が現実に持っている制度や権威構造への視線が、あまり見えてこないのだ。
たとえば門首制度である。
門首制度をただちに人権侵害というつもりはない。しかし、特定の家系と宗教的権威とを結びつける制度を持つ教団が、人権を正面から論じるのであれば、その制度が現代においてどのような意味を持つのか、出生と宗教的地位との関係をどう考えるのか、そこにどのような特権や排除が生じうるのか、といった問いを自らに向けるのは当然ではないだろうか。
しかし、門首制度のような自分たちにとって痛い具体的問題になると、その仏法の眼差しが急に届かない。「人権とは本当は何か」という壮大な問いには向かう。しかし、「では、あなたたち自身の制度を人権という物差しで測ったらどうなるのか」という問いには向かわない。
本号(巻頭言ではない)では女性差別についての問題も大きく取り上げられており、それは具体的でかつ重要な論考だと感じたが、そこでも男系男子においてのみ継承される門首制度については触れていない。たまたま忘れていたのか、あるいは触れるほどの問題ではないと考えたのか、あるいは触れられない何かの事情があったのかは知らないが。
6 「世間の仏法化」という言葉が示すもの
そして、この巻頭言の問題を最も象徴しているのが、最後の一節である。
現代社会をよく観察して、その根底にあるものを見抜く眼と、仏教を深く学んで、両者を重ね合わせる必要がある。これを「世間の仏法化」と称して、私たちの基本的な姿勢としていきたい。
私はこの「世間の仏法化」という言葉に、強烈な違和感を覚える。なぜならここには、「仏法は社会を照らす側であり、社会は仏法によって照らされる側である」という構図が、無意識のうちに成立しているからである。
しかし宗教団体もまた「世間」の一部である。仏法を語る者だけが、それらから離れた場所に立つことはできないはずだ。ここでいつの間にか真宗は、外部から批判される一つの宗教ではなく、「人権とは何か」「社会とは何か」を判定する側へと移動している。
私の知るカルト問題は、大体この論理の上で起きている。「宗教」を「世間」の上位に置くことで、自己を顧みることができなくなり、暴走するのだ。
7 「世間の仏法化」の前に
「世間の仏法化」を語る前に、まず自分たちの教団を、人権という外部の物差しにさらしてみることが、どうしてできないのだろうか。
人権を仏教の物差しで測り直すのではなく、人権という外から来た物差しを、自分たち自身にも容赦なく当ててみる。その結果、長く守ってきた制度や伝統が批判されても、その批判から逃げない。
「われわれは普通の宗教ではない」と言う前に、普通の宗教団体に向けられる批判を、まず自分たちも引き受けてほしい。それこそが、「苦しみ悩みながら宗祖親鸞と共に学ぶ道」だろう。
実は本号には、そうした視点で人権の問題を捉えている論考もある。私は「これって巻頭言を暗に批判しているのでは」と思ったくらいだ。それはいくらなんでも考えすぎかもしれないが、そうだとしたらその勇気には敬意を表したい。

