ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

同朋会館の飲酒問題

私は十五年ほど前から、真宗大谷派という教団に身を置いています。

真宗大谷派には、教団の中心的な研修施設として「同朋会館」があります。そこには全国各地から門徒の方々が「奉仕団」として集まり、仏法の話を聴き、座談をし、清掃奉仕をしながら、数日間をともに過ごします。私自身も、これまで何度も同朋会館を訪れ、その場に身を置いてきました。

同朋会館では、当然のこととして飲酒は禁止されています。喫煙についても、所定の場所でのみ認められています。宗派の研修施設であるという性格から考えても、また現代社会における安全管理や公共性の基準から考えても、これはきわめて当然の規則です。入館時にはそのことが案内され、参加者はその規則に同意したうえで研修に入ります。

ところが現実には、その禁酒の規則が厳格に適用されるのは、ほとんどの場合、奉仕団の参加者に対してだけです。

「補導」と呼ばれる、奉仕団を指導し、生活を支え、研修を世話する立場のスタッフがいます。補導は職務としてその場に関わっており、もちろん有給の立場です。しかし、その補導たちが、しばしば同朋会館を飲酒の場としてきた現実があります。

補導仲間で会館の中で酒を飲むこともあります。研修中であるにもかかわらず、仕事を放り出すように外へ飲みに行くこともあります。翌日の晨朝、つまり朝のお勤めに、二日酔いで酒の匂いを漂わせながら参加する人を見たこともあります。

もちろん、多くの人が関わる場であれば、規則を逸脱する人がまったく出ないとは言えないでしょう。しかし、この問題は単なる個人の逸脱ではありません。現実には、補導の飲酒はほとんど一つの文化のように定着してきました。補導の人たちが同朋会館に集まり、補導自身の研修会を行う際には、たくさんの酒が持ち込まれ、そのまま宴会が始まることも珍しくありません。研修の講師が、ルールを破って飲酒したことを武勇伝のように講義中に語ることもあります。悲しいことですが、それが現実です。

このような状況に対して、「これはおかしいのではないか」と声を上げた人は、私の知る限りでも何人かいました。しかし、その声が真剣に受け止められたとは言いがたいのです。むしろ、「そんなことは当然ではないか」と言わんばかりの対応をされたり、逆に問題を指摘した側が非難されたりすることもありました。その結果、居場所を失っていった人の姿も、私は見てきました。

この問題は、単に「酒を飲んだ」「規則を破った」というだけの話ではありません。

同朋会館とは何のための場なのか。補導とは、いったいどのような責任を負う立場なのか。参加者には禁じられていることが、なぜスタッフの側では当然のように許されてきたのか。そして、そのことを「おかしい」と言う人が、なぜ逆に居づらくなってしまうのか。

そこには、真宗大谷派という教団が抱えている、より深い問題が表れているように思います。

少し長くなりますが、同朋会館における補導、すなわちスタッフの飲酒問題について、私なりに論点を整理し、皆さんに問題提起をしたいと思います。

1 規律の二重基準・言行不一致の問題

一番はこれです。同朋会館では、研修者に対して飲酒が禁じられています。にもかかわらず、その研修生活を支える立場にある補導が飲酒しているとすれば、そこには明らかな二重基準が生じます。

研修者には規律を求めながら、補導は内輪の慣習として例外的に飲酒していることになります。これは、「支える側は許される」という特権意識につながり、研修施設としての規則の正当性を損ないます。

2 補導の責任と安全管理の問題

補導は単なる参加者ではなく、研修者の生活を支え、相談に応じ、場の安全と秩序を保つ役割を担っています。

研修中には、急病、精神的な不安、参加者同士のトラブル、夜間の相談などが起こる可能性があります。例えば夜間に急病人などが出たときに、補導が飲酒していたら致命的な対応の遅れにつながる可能性があります。

3 同朋会館の理念との矛盾

同朋会館は、単に教義を学ぶ施設ではなく、生活をともにしながら、「同朋」として仏法を聞く場であるはずです。

しかし、研修者には飲酒を禁じながら、補導側が飲酒を続けているなら、そこには「同朋」ではなく、上下関係と内輪の特権が現れていると言わざるを得ません。

同朋会運動が問うてきたのは、権威主義や差別性、建前化した宗教性ではなかったでしょうか。にもかかわらず、補導自身が「自分たちだけは例外」というあり方を続けるなら、それは同朋会館の理念を内側から空洞化することになります。

4 内輪文化・組織の自浄能力の問題

補導の飲酒が後を絶たない背景には、「昔からそうだった」「少しくらいならよい」「懇親も大事だ」という内輪のなれ合い文化があると考えられます。

問題を指摘する人がいても、「細かいことを言うな」「空気を読め」「場を壊すな」と受け止められるなら、その組織は自分たちを問い直す力をまるで失っていると言わざるを得ません。

5 問題飲酒・依存症への無理解

同朋会館に来ると飲酒をやめられない人がいる場合、それは単なる酒好きではなく、飲酒のコントロールが難しくなっている可能性があります。にもかかわらず、補導の研修会で当然のように酒が出るなら、教団自身が依存を助長する場を作っていることになります。

これは本人にとっても、周囲にとっても危険です。宗教教団であるなら、人間の弱さや依存の問題にもうすこし敏感であるべきです。

6 飲酒が引き起こす社会問題への無関心さ

この問題は「同朋会館の規則に違反している」というだけでなく、飲酒という行為が社会的にどれほど多くの問題を生んできたかへの自覚がない、という問題でもあります。

アルコールは、個人の健康問題だけでなく、事故、暴力、家庭問題、職場トラブル、ハラスメント、貧困、孤立などと深く結びついています。

ですから、宗教的研修の場で飲酒を軽く扱うことは、単に「ちょっと羽目を外した」という話ではありません。飲酒によって苦しんできた人、家族の酒害に傷ついてきた人、暴言や暴力やハラスメントを受けた人、依存症から回復しようとしている人が、その場にいる可能性があります。そうした人たちにとって、補導が当たり前のように飲酒する場は、安心して身を置ける場ではなくなります。

大谷派は、社会的差別、戦争責任、被差別部落、ハンセン病、靖国、原発、貧困、ジェンダーなど、さまざまな社会問題に向き合う言葉を持ってきました。しかし飲酒については、批判的に見つめる視点がほとんど存在しません。

7 飲酒環境を美化する問題

さらに問題なのは、大谷派では飲酒が「腹を割って話す場」として美化されやすいことです。しかし、それは本当に聞法の場にふさわしいのでしょうか。

酒が入らなければ本音で語れない。
酒席がなければ関係が深まらない。
飲むことで仲間意識を確認する。

こういう文化は、実はかなり排他的です。飲めない人、飲まない人、酒害の経験がある人、依存症から回復中の人、未成年、若い参加者、女性、ハラスメントを警戒する人を、静かに周縁化して排除します。

つまり、補導の飲酒問題は、酒を飲む人の自由の問題ではなく、飲酒文化によって傷つけられる人の存在を見ていないという問題です。

そして同朋会館が本当に「同朋として出遇う」と言うなら、飲酒をめぐる社会的加害性にも敏感でなければならないはずです。

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以上、私なりに論点を整理してみました。

飲酒の問題は、単に個人の嗜好や節度の問題にとどまるものではなく、ハラスメント、暴力、依存症、排除、場の安全性など、さまざまな社会的問題と深く関わっています。だからこそ社会は長い時間をかけて、飲酒がもたらす影響と向き合い、そのあり方を問い直し、環境を整備してきました。

しかし、少なくともこの問題に関して、真宗大谷派は全くといっていいほど向き合えていません。原発や差別や靖国といった問題への熱量と比べると、ほとんど無関心といってもいいくらいです。

この小論が、同朋会館に関わる皆さんにとって、補導のあり方、研修の場の安全性、そして「同朋」とは何かを考え直す一つのきっかけとなることを願っています。

そして、この問題について、誰かを排除したり責め立てたりするのではなく、健全で率直な議論が起こることを、心から願っています。

「ラヴ阿弥陀仏」について思う。

私たち真宗僧侶の間でちょっとだけ(まあ局地的なんだけど)話題になっているものがある。それは、これ。

ラヴ阿弥陀仏、阿弥陀仏はこんなこと言わないよね、というセリフばかりが並んでいる。

 

「ラヴ阿弥陀仏」という。南無阿弥陀仏のパロティなんだろう。真宗教団連合が主催している「ごえんさんエクスポ」の中で行われたもの。なんだか阿弥陀さんがホストクラブのホストみたいなイメージで描かれている。

宗教って常にこの手の問題を抱えていると思うのだけど、それは信仰の対象をなにかの表現に使うのに、どこまでが表現の自由として許されるのかということ。

例えばシャルリー・エブド事件なんか有名で、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺的に描いたことをきっかけに、ムスリムから強い反発が起こり、2015年には編集部が襲撃されて12人が犠牲となった。

ja.wikipedia.org

あるいは、アンドレス・セラーノの「Piss Christ」なんてのもあった。

artnewsjapan.com

他にも身近なところでは、「聖☆おにいさん」というマンガに描かれたキリスト像に牧師さんがかなり激しく反発していたのをネットで見たことがあるが、残念ながら今調べても見つからない。

こうしたものと、この「ラヴ阿弥陀仏」はだいぶ違うところがある。一つは、何かの問題性への風刺や表現への挑戦といった、「そうしなければならない」という意図と覚悟が全く見られないこと。主催者の人はそんなことはないと言うのかも知れないが、私からはただのおふざけにしか見えない。「宗教への冒涜」というより「信仰対象の消費・軽薄化」と言えるもので、なにか変わったことをして人集めをしたいという以上のものは、残念ながら感じない。

そして、これをやっているのが他ならぬ当事者である浄土真宗の僧侶であるということ。宗教的価値観の外部からこうした表現をしているのではなく、同じ信仰を共有する内部の人がやっているわけだ。そりゃ、同業者からしたら「お前何やってんだ」という話にもなる。

最後に、これって誰かが勝手にやっているのではなく、「真宗教団連合」という公益性のある組織のオフィシャルなイベントとして、それなりの浄財が使われてやっているのだ。そんなこんなで、この「ラヴ阿弥陀仏」について強い反発を感じる人が出てくるのも理解できる。(僧侶が運営する企画会社に相応の対価が払われており、企画はボランティアでなされているのではありません)

中には反発している人に対して、「めんどくさい人」「あなたは対象外」「寂しいんだろ」なんて侮蔑的な投稿をする人も出てきた。やれやれ。

日本ではこうした宗教的表現を茶化すような行為に対して、寛容な態度を示すことが美徳とされる文化があるように思う。逆に不快感を示す人に対しては排他的であり不寛容であるとレッテルを貼るような、そんな空気があると思う。

そして、大多数は楽しんでいるし気にしないということで、少数の人の痛みや不快感は軽視されてしまう。これってどうも差別問題に似ている。

差別的な属性を茶化したりネタにして、それで沢山の人が笑って楽しんだとしても、それに不快感を示す人は当然いるのだ。そうした人に「いや、君は対象外だから、自分だけ楽しめなくて、さみしい気持ちもわかるけどさ」と言う人がいたら、そりゃおかしいだろう。(というか、仏教ってそんな教えじゃないよね)

何かのネタで排除されたり不快に思ったりする人が少しでもいたなら、それはやめるべきだという社会的合意を、私たちは長い時間をかけて作り上げてきたはずだ。少なくとも、オープンな場では。

だからもし、たとえ一部の人が不快に思ったとしても、どうしてもそこを乗り越えて表現しなければならないことだったならば、不快に思うであろう人たちに対して配慮して、それでもこの表現でなければならないことへの覚悟と十分な説明が必要になる。

同様に、誰かが限りなく尊重している宗教的シンボルを茶化したりネタにすることについても、当然にそうした配慮が必要になると私は思うのだが、この「ラヴ南無阿弥陀仏」にはそんな姿勢は全く見られない。もちろん、覚悟も説明もない。ただ、ひたすら軽いだけだ。軽薄と言ってもいい。

これでいいのかなぁとはちょっと思う。こういうのが好きな人たちが勝手にやっているのならそこまで気にはならないのだけど、これって私のいる宗派の本山の前でやってるのだ。残念だし、やめてほしかったなとは思う。お前ら対象外で関係ないからほっておいてくれという話じゃないんだ。うちの本山なんだよ。

さて、昔から「仏教の敷居を下げよう」みたいなことが言われていて、ここまではっちゃけたものでなくても、この手のイベントは割と多い。それが悪いとは言わないけど、僧侶が仏教以外のことをして話題性を作って人を呼ぶ、みたいなのがあまりに多いように感じてしまうのだ。

例えば酒を飲んだり、あるいは音楽をやったり、今回のは恋愛相談だけど。そんなのは一時的に人は来るかも知れないけど、結局のところ仏教を求めている人は来てもそう多くないだろう。多くの人を呼ぶ入口になるかも知れないけど、それはそのまま出口としても機能してしまうように思う。

私たちは「お寺に人が来ない、だから敷居を下げよう」とか思うのだが、お寺に人が来ないのは敷居が高いからではなく、そこに仏教がないからである。ちゃんと仏教の話をしていたら、数は少ないかもしれないけどちゃんと人は来るのであって、それで十分じゃないか。

でもそうは思ってくれないのだ。「仏教+ナントカ」みたいなことをしないと、来ないと思っている。これは宗派や教区なんかでもそうですよ。知識人や文化人を呼んできて「仏教x〇〇」みたいなのばっかりやってるから。

そういうのが要らないとは言わないけど、その先がすっからかんなんですよね。もっとストレートに、仏教の話をしたらいいのに。ずっとそう思っている。

従順で、しかも利口な思想

 ひとはしばしば、〈われ〉と世界とのくい違いを知って身ぶるいし、これはどうにかしなければいけないと考える。たとえば、真夜中、恐ろしい夢魔になやまされながら横たわっているとき、われわれは自分を守ってくれる堡塁(ほうるい)が崩れ落ち、深淵がかっと口を開いているように感じる。しかし、こんなときでも、われわれは「その苦悩の底に生命がひそみ、自分もその生命に立ち戻ることができる」という意識を持つことができるのである。

 しかし、そうなるにはどうしたらよいか。どうしたら……。われわれはこのようなとき、とつおいつ思案にくれる。そしてそのうちに、われわれは自分を犠牲にすれば、逆転に通じる真の道のあることを、心の暗い奥底において知るのである。しかし、それにもかかわらず、われわれはこの事実を無視してしまう。第一、心の内部の「神秘的な幻」は、電気の光にはとうてい耐えられないのである。そのため、われわれは、このような考えをすて、日常生活で非常に信頼を寄せている思想に援助を求める。すると思想はわれわれに、精神的危機はどこにも存在せず、万事はうまく運んでいるるという安易な気持ちを起こさせてくれるのである。実際、思想はこの世が頼りになり、それを信頼しても大丈夫だという絵空事を描いてくれる。これこそ、思想の高等技術なのである。われわれは、こうした思想にむかっていう。

「わしの目の前には、残酷な目つきをした怪物が長々と横たわっている。――こやつはかつてわしの遊び友達じゃった。知っての通り、こやつは昔、この目でわしのを見て笑ったものだ。その時分、その目つきには善意がこもっていた。ところが、この惨めなわしは、正直にいうと、いまは空っぽだ。わしはものを体験し、利用するようになったおかげで、世界から自分になにをつぎこんでも、その空虚(むなしさ)は充たされん。まことに相すまんが、お前は世界とこのわしの間に立って、わしたちをもとの仲に戻してはくれんじゃろうか。そやつがやすらかに横たわり、またわしが生き返ることができるようにしてはくれんじゃろうか」。

 従順で、しかも利口な思想は、これを聞いて、待ってましたとばかりにものすごいスピードで、一列――いや二列の画を左右の壁に描く。その一方は宇宙がある(いや、あるというより、むしろ宇宙が展開されるといった方が正しいだろう。なぜならば、思想が描き出す世界像は、信用における映画のようなものだから)。この宇宙のなかで、ぐるぐると廻っている星から小さな地球が飛び出す。その地球上には生物がうようよと群がり、今度はそこらちっぽけな人間が飛び出す。歴史はその人間どもを何代も何代も先まで運んでゆく。そして、歴史がその足でめちゃめちゃに押し潰した文化の蟻塚をかれらに造り直させる。こうした一列の画の下には、「どれもこれも皆ことごとく」という言葉が書かれている。つぎに、別の壁には、一列の画に魂の誕生が描かれている。一人の紡ぎ女が、すべての星の軌道と、すべての被造物の生命と、さらに宇宙の歴史を織っている。彼女は一本の糸によってこれらすべてのものを織りなしてゆく。だから、そこにはもはや、星も被造物も宇宙もなくなり、あるものはただ、個人の感覚と表象と体験、あるいは魂の状態だけになってしまう。そして、これらの画の列の下にも「どれもこれも皆ことごとく」という言葉が書かれている。

 さて、思想がこうした二種類の画を描いてくれてからというもの、われわれは、〈われ〉と世界とのくい違いにおそれおののくとき、あるいは世界がわれわれの心に恐怖をひき起こしたときには、ただちに右手なり左手なりの画からは、自分が世界の中に埋められてしまったため、〈われ〉なるものの存在が消滅し、したがって世界はもはや〈われ〉をどうすることもできないということを知って、安堵の息を洩らす。あるいは、われわれは別の画から、世界が〈われ〉のうちに宿るがゆえに、世界は実は存在せず、従って世界は〈われ〉をどうすることもできないことを知って、これまた安心するのである。このようにして、われわれは〈われ〉と世界のくい違いに身震いしたり、世界が自分の心のうちに恐怖をひき起こすときには、いつでもただちにこれらの画を眺めるのである。この場合、どちらの列の画を見ようと、そんなことは問題ではない。なぜなら、そのときには、空虚(うつろ)になっている〈われ〉は世界によって完全に充たされているか、それとも世界の流れによって完全に押し流されているからである。そうなったとき、はじめて、われわれの気持ちは安らぐのである。

 しかし、いつの日か、われわれが現実におそれおののきつつ、双方の画の列を一瞬同時に眺めるときが来るであろう。いや、その日の来るのは間近い。そして、そのときこそ、今までにないあたらしい戦慄が、われわれの全身をとらえるのである。

(マルティン・ブーバー『汝と我』野口啓祐訳)

旧統一教会(家庭連合)、東京高裁の解散命令から考えたこと

2026年3月4日、東京高裁は地裁での判断を支持し、旧統一教会(家庭連合)に解散命令を出した。

私は昨年、半年かけて現役の二世信者たちや、旧統一教会の幹部にインタビューをして、「統一教会・現役二世信者たちの声」という本を出した。執筆後も緩やかに彼らとは繋がっていたので、清算人が各地の教会に入り信者を退去させている状況を聞くと、やはり胸が痛む。昨日は仕事で北九州に行っていたのだが、現役信者、脱会者、記者などとメールや電話でやりとりをして、それだけでほとんど一日が過ぎてしまった。

高裁の判断は、簡単に言えば彼らがコンプライアンス宣言後に、あるいは安倍元首相銃撃事件の後に行った改革は解散逃れのためのものであって、根本的な教団の体質は変わってないのだから、これ以上の被害拡大を防ぐには教団の解散はやむを得ないというものだった。

私は…教団の中でも自分たちは抜本的に変わらなければならないと考えて、必要な対策を真剣に考え、再発を防止するための構造的な改革に取り組んでいた人たちを知っている。それが十分であったかどうかはともかく。自浄能力が全くないかといわれたら、そんなことはないと感じる。

しかし、やはりそこには決定的なものが欠けていて、そのことは彼らの声を直接に聞いて、ある程度彼らの立場に立って考えることのできた自分でもはっきりわかった。もちろん、高裁判断でもそのことは触れられている。

つまり、自分たちは確実に悪いことをしたのであり、それによって現実に苦しんだ人たちがいたという事実を、彼らはどうしても認めることができなかった。被害者に返金することはあっても、苦しんだ人たちに心から謝罪することができなかった。

形だけでもそれができたのは去年の12月であり、事件からおおよそ3年半が経っていた。流石に、遅すぎたと思うし、いささか打算的でもあった。

もちろん、個人個人の信者と対話したら、苦しみを与えた人たちに謝りたいと、真摯に言う人はいた。でもそれが全体の意思になるには時間がかかりすぎた。

事件後に彼らが訴えたのは、謝罪よりむしろ、自分たちは悪くないというアピールだった。

彼らは脱会して教団を訴えた人たちを、背教者と言った。

教団から受けた苦しみを証言した人を、SNSなどで攻撃した。その証言には事実より過大な部分がもしかしたらあったのかも知れない。でも、決してやっていいことではなかった。

教団の問題性を追求していたジャーナリストや弁護士を訴訟し続けた。私もそれらの人たちの態度や、報道の正確性に疑問を持つこともないではなかった。でも、そんなことをしてなにかいいことが一つでもあっただろうか。

信者たちで大量のSNSアカウントを作り、教団を批判する人たちをサヨクとか共産主義者とレッテルを貼り続けた。

若い二世信者を街頭に立たせ、また様々な寺や伝統的なキリスト教の教会などを周り、あるいはシンポジウムなどをひらいて、信教の自由を訴えた。しかし、今回の解散請求はあくまで法人に対して出されているもので、信教の自由の問題ではないことは、よく考えればわかることだった。

脱会した人は拉致監禁されて強制的に棄教させられた人で、それらの人たちが弁護士などにそそのかされて教団を訴えたのだとした。そういう人もいたかも知れないが、そんな人ばかりではないことを知ろうとしなかった。

そうした活動は内向きには彼らの結束を高める効果はあったかも知れない。しかし外に向かってその声はほとんど届かなかったといっていい。そんなことは彼らだって薄々感じていたと思うが、始めてしまった以上、やめられなかったのだろう。

彼らは一貫して自分たちは被害者だと訴え続けた。私はそういう彼らの訴えに同情する思いも少しある。確かにマスコミの反応は過剰だったと思うし、嵐のようなバッシングは見ていて辛かった。自民党はあっさりと彼らを見捨て、学校や職場で差別される信者も出てきたが、世間がそうした彼らの苦しみに目を向けることはなかった。

しかし、それでもなお、私は思う。彼らが本当にやらなければならないことは、被害者になることではなく、加害者として自分たちの過去の過ちを真摯に見つめて、苦しんだ人たちに謝罪することだった。返金ももちろん大事だが、過ちを認めて謝罪することが必要だった。

それがどうしてもできなかったのだ。それがどんなに難しいことかは私もわかる。ある幹部は「瓜生さんの言いたいことはわかるが、私たちはいま裁判で闘っている。それは無理なんです」といった。でも本当に謝ることができたら、たとえ裁判で負けたとしても、教団にとっては決してマイナスにはならないし、かえって彼らの再生を後押ししたと思う。

謝罪すべきだと考えている人だっていた。しかし全体としてはその流れにはならなかった。内心、それを認めたら自分たちの信仰そのものが崩壊してしまう、といった危機感もあったのかも知れない。それはとても勇気の必要なことだから。

別に表向きだけでもいい、打算的でもいい、謝罪するべきだった。そうやってしっかりとした態度を外に出して動いていれば、いずれは組織のマインドもそうなっていくものだから。

そういえば、私のいる真宗大谷派だって、戦争に協力したことへの反省を表明できたのは戦後半世紀経ってからだった。彼らに与えられた時間はあまりに短かったのだろうか。

文鮮明は晩年、教団組織の解体を望んでいたと聞く。どこまで本気だったのかはわからないが、一つ一つの家庭に信仰が伝えられていけば、教団はいらないのだと考えていたらしい。自分が作り上げ巨大な集金組織になった教団に、複雑な思いを抱いていた、くらいのことはあってもおかしくはない。

教団がどうなるのか、天地正教に移行するのか、あるいは任意団体として存続するのか、それはわからない。

信徒にとってはあまりに大きな出来事だろし、軽々しくは言えないことだが、本来の宗教や教団がどうあるべきかを考えるまたとない機会でもあるとおもう。これから、家庭連合の人たちが、どのような道を歩むのか、見届けていきたい。

 

ヴァイオリンのレッスンを受けることになった

表題の通り。

以前にここで、ヴァイオリンを買ったぞ、みたいなことを書いたんだけど、その後、コツコツと練習を続けて、ほんとうに簡単な曲なら弾けるようになった。

でも、いい音が出ないんですよね。コンサートとかで聞くような音ってどうやったらでるのかが、全くわからない。なんか根本的に間違っているのかも知れないと思い始めた。

で、知人にピアニストがいて、いろいろ聞いてみるとレッスンしないとダメだとなんとなくわかった。そこでいくつかヴァイオリン教室を探した。東近江市だけで2件もあった。意外とあるんだな。

家族からは、「あんな忙しいのに正気の沙汰か」とだいぶ言われた。まあ、忙しいのは本当だけど、私の忙しさは自分で自由に時間が調整できる忙しさでもある。行けないはずはないさ。

近い方の教室に行ってみた。楽器屋さんの2階でやっているよくあるヴァイオリン教室。体験教室を申し込んで恐る恐る入ってみる。楽器を習うのは(小学校の時のピアニカとかリコーダーを別とすれば)全く初めてである。どきどき。出てきたのは僕よりだいぶ年上の、グレイヘアの素敵な先生だった。30年間ヴァイオリンを教えているという。

ちょっと弾いてみてくださいといわれたので弾いてみたら、弓の持ち方や楽器の抱え方とか、いろいろ最初からやり直すことになった。やっぱりね。

先生は音大を出て古楽器の世界に入り、今はアマチュアオーケストラに所属しながらヴァイオリンを教えているという。ちょっと弾いてもらったけど異次元の音がする。ああ、こんなふうに音が出せたらどんなにいいだろう。

終わって外に出ると、ドアのそばに小学生くらいの女の子が小さなヴァイオリンを担いで待っていた。いいな、自分も小さなころにこんなことを習いたかった。

まだ2回しか行ってないが、人から何かを教わるとはこんなに楽しいものか。今まで経験したことのない種類の楽しさである。そういえば自分は、こんなふうに何かをマンツーマンで教わったことはなかった。大学のときに家庭教師をしたことがあるけど、あのときは教える方だったし。

とりあえず一年くらいは行ってみよう。その後も続けられるようなら続けたい。あんまり時間に余裕はないんだけど、なんとかなるだろう。このくらいの時間を捻出できないことなんてないはずだし。

親鸞仏教オフライン学舎

仲間と「親鸞仏教オンライン学舎」ってオンラインの学校を作って、3年目になります。先日の2月1,2日にはじめて東本願寺本山の同朋会館で「オフライン」の研修会をしました。

こういうのを正式には「奉仕団」って言うんですが、東本願寺に奉仕するつもりはさらさらないのでこの表現はあまり好きじゃない。昔の名残なんでしょうが。

オンライン学舎は今は400人くらいの方が受講していますが、この研修会に参加した人は30人くらい。私は教導だったので、2日で6時間くらい話しました。もともとオンラインで仏教を聞きたいなんてのは気持ちのある人たちだし、加えて泊りがけで京都の本山に行って話を聞きたいなんて人たちは更に前向きな人たちですよね。なので、話しやすかった。休憩時間も質問が絶えなかったし、座談も有意義でした。

素晴らしい環境に、仏教を本当に聞きたいという人ばかりの集まり。なにを話しても敬意を持って受け止めてくれる。でも、こういうところで話をするのは程々にしておいたほうがいいですね。

自分はずっと新宗教にいたし、そこでは「怪しい宗教のお兄さん」くらいの扱いをずっと受けてきていた。真宗大谷派という伝統宗派に入っても、新宗教出身の人間としてどこかキワモノ扱いされてきた。なんの肩書もないし、権威もない。

その中、数えるほどしか人が来ないような小さな勉強会を沢山やって来て、もともと自分はそういう場所で生きてきた人間です。それが、本山なんてところで打てば響くような人達の前で教導をやったら、やっぱり舞い上がってしまう。

こういう機会は年に一度のご褒美くらいに思っておこう。

ちなみに、最近は組とかの「〇〇大会」みたいなのに呼ばれることも割とあるんです。でもこれは悪くないなと思う。私の話を聞きたくないような人が仕方なく来てたりで、「こいつなんやねん」みたいな目で睨みつけて聞いてたりするから。

以前にある教区のちょっとした集まりに呼ばれて、大谷派では誰もが名を知ってる重鎮的な僧侶が、足組んで腕組してふんぞり返って聞いているのを見て笑ってしまった。「オマエの話なんて誰が聞くか」みたいなオーラが出まくりなのだ。

でもそういう人がいるのは、悪いことじゃない。ネコのウンコくらいの末席の僧侶である私が、たまたま何かの間違いで呼ばれたという事実を再確認させてくれる。

そういうのが不愉快かと言われたら否定できないけど、こんなことがあるからこそ、自分みたいなものもこの世界に染まらずやっていけるのかも知れない。

チャンネル登録者数が15000人に

なりました。なんか記念の配信でもしようかと思ったけど、アイディアが浮かばないんでここに書いておきます。

www.youtube.com

チャンネルを開設したのはだいぶ前なんだけど、本格的に動画をアップし始めたのはコロナ禍になってからです。始めたのは早い方だったので他の浄土真宗系のチャンネルと比較して登録者数はずっと上位にあったんですが、あとから始めた人たちにだいぶ抜かされちゃったな。

大体一ヶ月に12000人のユニークユーザーがアクセスしていて、リピーターが7000人くらいです。視聴者の6割は65歳以上で、7割が男性。おじいちゃん向けのチャンネルですね(笑)。全体で毎月5万~6万回視聴されています。

大きく登録者数が伸びた機会は3回あって、まずコロナ禍で配信を始めようとした最初のとき。色んな人が宣伝してくれて一気に伸びました。そして例の「新しい領解文」の問題を取り上げたとき。あともう一つはあんまり書きたくないけど、桜嵐坊さんという方のチャンネルで私の教義解釈が批判されたときです。

Youtubeをやるようになって、ZOOMで会費制(月500円)の無量寿経教行信証の講座も始めました。事務局が大変優秀で、堅調に続いています。ここで頂いたお金でYoutubeで配信される法話を維持するといういい流れができました。

sites.google.com

さらに、私は大谷派の住職なんですが、おとなりの本願寺派のお寺からの法話や研修や講義の依頼が随分増えました。今までは他派の人に依頼するってハードルが高かったんでしょうが、実際に法話の内容がオープンになると依頼しやすくなるのかも。去年一年の法話を見ると6割位本願寺派のお寺でやってます。逆に大谷派の人で、Youtubeを見て法話を依頼するって人はあまりいませんでした。なぜでしょうね。

そういえば、本願寺派ではYoutube配信に頑張ってる人を宗派や教区で積極的に取り上げているようですが、大谷派にそういう動きはあんまりないですね。まあそんなもんなんだろうな。

でも、こうやって配信の時代になったから、経典とか教行信証とかお聖教の話をたくさんできるようになった。それは嬉しいです。今まで草の根の小さな会所でコツコツやってきたことを、広く沢山の人に届ける形でやることができるようになった。仲間たちと「親鸞仏教オンライン学舎」なんてのも始めることができました。

shinran.online

配信を始めてから5年経って、ずっと聞いていて下さった方の何人かが高齢やご病気でなくなりました。でもそういう人に法話を届けることができたのも配信のおかげだと思う。僕のややこしい話をYoutubeで聞いてくれてる人たちへ、本当にありがとうございます。そんなわけで、これからもがんばるます。