ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

統一教会との思い出

私は長年カルト問題に携わっているけど、統一教会(世界平和統一家庭連合)との関わりはそんなになかった。ただ一度、彼らといろいろと話をしたことはある。

2011年のことだから、もう11年前のことになる。私は千葉大学公開講座でかると問題について講義をした。北海道大学の櫻井義秀先生と合同の講義で、前半は私、後半は櫻井先生だった。

私が話をしているときに、一番前の方で携帯をチラチラ見ながら話を聞いている学生がいた。大人しそうな女性だったのだが、講義が終わるとこの学生が怒涛の如く質問をしてきた。詳細は忘れてしまったが、私が講義中に統一教会に触れたことに抗議し、私を批判する内容だったと思う。

ただ、不思議なことに彼女は、質問するときにいちいち携帯をチラ見するのだ。質問の内容もなんだか変で、誰かに言わされている感がある。そこで、自分の話が終わり、櫻井先生の話になったときに、教室をグルっと回って怪しい人物がいないか確認してみた。

すると、いた。一番うしろの席で、中年男性がエアエッジのついたパソコンで、講義の内容のツッコミどころを探して、件の学生の携帯に質問内容を指示して質問させているのだった。早速隣りに座って「何してるんすか?」と問い詰めたら簡単に白状した。彼は統一教会の職員で、学生は信者だった。

「聞きたいことがあるなら、あなたが直接手を上げて質問したらいいじゃん。なんでこんなことするの?」というと、いろいろと言い訳を言ったような気がするけど覚えていない。真面目そうな人だった。

その後、大阪大学原理研究会から連絡があった。千葉大学で行った講演について話し合いたいから寺に行ってもいいか、という。なんで千葉大で話した内容が阪大に伝わっているのかと思ったが、断る理由もないので承諾した。数日してワゴン車に乗って学生が6人寺に来た。

うち1人が大学で勧誘された信者で、5人は祝福二世だという。リーダーは4回生の女性で就職も決まっているという。ずいぶんしっかりした話しぶりで、統一教会はカルトではなく危険な宗教ではないと説明する。私はその内容に一つ一つ反論しながら彼らと対話したが、どちらも感情的になることはなく、宗教以外の内容、学生生活や趣味などの話になればそれなりに楽しく談笑し、2時間ほど対話して彼らは帰った。

後日阪大の先生にそのことを報告した。その6人の信者については大学側でも把握していて、授業にはきちんと出席しているし成績も問題ないという。

私は彼らの背景にどんな宗教被害があるのか、今も考える。自分が見たものは問題なかったと言っているのではない。宗教に入る人にはそれぞれの人生があり、その中には普通の生活や笑いや喜びや悲しみもある。山下容疑者に関連する報道で出てくる二世被害だけが統一教会の姿ではないし、あの学生たちの礼儀正しい姿だけが統一教会の姿でもない。

あらゆる偏見から少しずつ離れ、対話し、そこから生じる社会的問題性を徐々に減らしていくことはできるのだろうか。統一教会に関しては、もうそんな段階の教団ではないことは重々承知しているのだが。

回収になった本願寺新報の記事について

浄土真宗本願寺派から月に3回発行されている「本願寺新報」という教団紙があります。その新年号(2022年1月1日号)が発行中止になり、ある記事が他の記事に差し替えられ、再発行されました。早期に配布されていた所には回収の指示が入り、その内容については「他言無用でお願いします(回収に応じた寺院関係者談)」と言われたと聞いています。

この件について取材して記事化したのは、私の知る限り中外日報一社だけですが、その取材に対しても回収理由は伏せられています。おそらく、何が問題かも明確にならないままに、この事件は闇に消えてしまうのだろうなと思っていました。しかし遠い国の戦争の報道を聞き、誰かがどこかに書き残しておかないとならない気がして、ここに書きます。

私は知人を通じてこの回収の原因となった記事を入手しています。本当は全文引用したいところですが、著作権の問題もあるので、ダイジェストとなります。

なお、執筆者は本願寺派の重鎮と言われる布教使ですが、すでに回収された記事ですので、名前は伏せます。

記事のタイトルは「親鸞聖人にいまさずば 国の歴史にも影響を与えた聖人」。著者は「親鸞聖人がいらっしゃらなかったら(中略)この日本の国がどうなっていたか、私なりに思いをめぐらしてみました」と前置きし、ローマ・カトリックが、スペインやポルトガルの自国領土の拡大や、異教徒の奴隷化を求めて伝道を開始したこと。その宣教師が戦国時代に日本に来たが、一般大衆に教化がうまくいかなかったとし、その原因を「浄土真宗の教えが広まっていたから」と論じてます。

また、その宣教師の布教に一般庶民である念仏者が「キリスト教に改宗したら天国に生まれると言 われるが、天国に生まれても神のしもべではないか。私たち念仏の 世界はだれでもが仏になれる」と反論したともいわれます。「後に何万人もの日本の若者が奴隷として売られることも発覚し、キリスト教は禁止されますが、親鸞聖人がいらっしゃらなかったら、もちろん浄土真宗の教えもなく、もっと大衆の中にキリスト教がひろがり、宣教師の次には商人がやって来て、その次には軍隊がやって来て、あっという間に植民地になっていたかもしれません。

次に著者は、ヨーロッパにおいて、プロテスタントから資本主義が生まれ、それが世界を制覇した。しかし日本では浄土真宗においてお金儲けは肯定され、明治までに市場経済の基礎が出来ていたとし、だからこそ著者は、浄土真宗のおかげで明治維新時に日本は西洋の植民地にならなかったのだと結論づけます。

親鸞聖人がいらっしゃらなかったら日本はどうなっていたのか。おそらく宣教師のスムーズなキリスト教の教化や経済基盤の未熟さによって、西洋の植民地になっていたかもしれない…と私は思うのです。

つまりは、西洋の覇権主義から浄土真宗は二度も日本を守ったのだと言いたいわけです。

この記事の問題点として上げられるのはおおかた以下のようなものでしょう。

一つは、歴史は重層的であり、常に複数の要因が絡まり合って作られることを無視した、夜郎自大な歴史感。日本においてキリスト教の布教が低調であったとして、その主因が浄土真宗の広まりにあったとする著者の主張は、あまりに根拠がなさすぎて話になりません。当時の日本人の大半が浄土真宗の信者であったわけでもありませんし。

浄土真宗門徒衆によって資本主義に近いものが大阪に生まれていたことも一面では事実でしょうが、それが西洋の植民地化を防いだ主因かと言われたら、そうとは言えないでしょう。つまり、どちらも根拠がなさすぎるし、僅かな要因に過ぎないものを過大評価しすぎです。

二つには、キリスト教に対する差別意識です。彼らの布教がすべて植民地化の尖兵であるかのように書かれることも問題ですが、彼らの宗教的論理より浄土真宗のそれが優越していたから、カトリックの浸透を防げたのだと言わんばかりのこの記事は、自らが批判したカトリックが持っていた優越感や差別性と同様の問題が、自らにもまた存在していることを証しているようなものです。

具体的に言いましょう。浄土真宗は権力に寄り添い、日清日露戦争を契機に戦争にも協力。日本の侵略行為の尖兵として、支配地域に巨大な別院を建て布教を行っています。つまりローマ・カトリックが宣教した地域の土着信仰に対して、それに優越するキリスト教を教えて救ってやろうと意気込んでやった行為を、自分たちもほぼ同じ意識において行ったのです。

キリスト教が進出した土地でその信仰が残った地域は枚挙に暇ありませんが、浄土真宗が日本の帝国主義と共に進出した地域に、その信仰は全くと言っていいほど残っていません。別院や寺院はあらかた破壊され、残ったものも植民地支配の負の歴史のシンボルとなっています。

著者の論理を使えば、日本が戦争に邁進し、アジアの人たちを苦しめ、悲惨な敗戦を迎えた主因も親鸞聖人と浄土真宗にあったとも言えてしまうでしょう。

私がまだ親鸞会の講師だった頃、古本屋で「国民の歴史」という本を見つけて買い、無我夢中で読みました。著者の西尾幹二は私の大学時代のドイツ語の先生でした。この本の内容は、一言で言えば自分の国のアイディンティティや歴史に誇りを持とう、という視点での歴史観の再構築です。

私は少年時代に広島に住んでいて、原爆の学習においてその責が日本の帝国主義ばかりに負わせられ、アメリカへの批判がないこと、常に日本が悪者として語られることに疑問を持っていました。だからこそ、当時の私にとってこの本は新鮮で、人を酔わせる魅力を持った論でした。

ところが、国力の衰退とともにこうした「日本は実はすごい」的な本が大量に出てきて、百田尚樹櫻井よしこといった論者が中心となり、それが書店の書棚を覆い尽くすようになってきました。今はその主戦場はYoutubeなどに移っているようですが、いずれにしても、日本という国の中でしか通用しないような閉じた歴史観であり、その外の人には全く通らない「誇り」でしか無くなってしまいました。

私は思います。浄土真宗も全くかつての勢いを失ってしまいました。外に向かって布教しなければと声を上げる人はいても、結局の所、寺や教団の中という守られた世界の中でしか伝道は出来ません。だから伝道布教と言ったところで、その限られたパイの中で、如何にして人気を獲得して呼ばれる布教使になるかに、しのぎを削っているのが現状です。

だから、狭い世界の中でしか通用しない我田引水な歴史観で、「浄土真宗すげー」みたいな話をして、それを省みるための論理を失ってしまったのです。こんなもの、その閉じたサークルから一歩外に出たらドン引きされるのはわかりきっています。でも、その現実が見えないのです。もう見えないところでしか生きていけないのです。

本願寺派が具体的に何を問題として回収に動いたのかはわかりませんが、多額な費用と手間を顧みずにその決断をしたのは、誠に賢明な判断だったと思います。しかしできればその経緯を公開し、今後の反省の材料として、多くの人とともに考えていきたいものです。こうした話をする布教使は、この著者にとどまらないと聞いていますので。

反ワクチンな人たちとの対話と、あるアレフ幹部の思い出

いま、2回めのファイザーワクチンを打って、副作用でフラフラになりながらこれを書いている。耐えきれないほどではないけど、それなりにきつい。

そんなときに、寺に電話がかかってきた。これは電凸と言ってもいいのかな。以前に私がインタビューされて応じて、動画として配信されているインタビューがあって、それを見て話したいというのだ。いわゆる「反ワクチン」の方だった。

動画は以下のものだ。それにしても、コメントが酷い。

www.youtube.com

これについては、以前にこんな記事も書いた。こちらのほうが本音に近い。

nekojushoku.hatenablog.com

動画自体は再生回数が多いわけではなく、影響力もそんなにないと思うのだが、「カルト化」なんて書いたから癇に障ったのだろうか。「反ワクチンをカルトと言いましたね!」みたいな電話がかかってくるのだが、動画をよく見ればわかるがそんなことはいってないのである。他にも攻撃的なもの、私をせせら笑うもの、憐れむもの、なんとかワクチンの危険性をわかってほしいと説得するもの。いろいろな意見が寄せられる。

もっとも、私は上の動画や文章を見ていただければわかると思うが、一方的に自分の正義を押し付けることなく、相手の立場を理解して対話する道を主張してきた。ただこの手の「反ワクチン」(あまりこういうレッテルを貼るのは好まないが、これ以外に表現のしようがない)の人たちからのメールやSNSのコンタクトや電凸はそれなりにあり、今日はあまりに一方的な電話で、皮肉にもそのワクチンの副作用で体調が悪く、うんざりして相手の話を遮って電話を切った。悪かったと思っている。

でも今日のはまだマシなのであって、少し前にはワクチンを推奨する人殺し住職と言われたりもした。いや私はワクチンを打つのが正義で、反ワクチンが間違っていると言っているわけではない。互いに自分の正義を譲らず対峙するのではなく、自分の正しさを疑って対話をすることが大事だと言っている。しかしこの徒労感。私も、自分の正しさを疑えてないのだろう。全く、対話が大事と言っている本人がこれだ。

思えばこういう歩みをずっとしてきた。私はカルトと言われる(この表現も好きではないが、これ以外に言いようがないのだ)宗教団体に入った人との対話、その家族のサポートをずっとしてきた。その人の信仰の誤りに目覚めさせるよりも、自分が間違いないと思っている人生観を疑い、お互いに歩み寄ろうと言い続けてきた。長い地道な対話でそれが奏功した事もあった。でもどうにもならないことはそれ以上にあった。

法華系の仏教団体、韓国系のキリスト教団体、親鸞会電凸もあったし、集団で寺にきて抗議したところもあった。変なFAX、メール、多すぎてほとんどは思い出せない。一方的に人格を切り刻むような攻撃。私はこういうのを相手にしなきゃならない星の下に生まれたのだろうか。

意外に思うかもしれないが、もっとも礼儀正しかったのは霊感商法で知られる統一教会(現世界平和統一家庭連合)の若者たちだった。彼らはアポを取って寺に来て、一人ひとりきちんと本名と所属を名乗って理路整然と私に抗議した。話し合うこともできたし、帰りにお菓子を沢山もたせたら喜んでいた。もっとも、だからといって彼らの教団がやってきたことを養護する気は全く無いのだけど。

どれだけ理解しよう、対話しようと思っても、その緒すら全くつかめず、「完全に正しい(と思っている)」自分たちの主張を繰り返すだけで、1mmの歩み寄りも共感もできないことがある。どうしたらいいのか、ずっとその事を考えてきた。いやまあ、私自身が親鸞会という教団にいたときは、私がそう周囲に思われていたはずだ。その時の気持ちはどうだったか。思い出すことはできるが、だからといってどうしたらいいのかはわからない。

以前にアレフオウム真理教)のある有名な幹部が、死刑廃止運動の集会に来ていたのを見たことがある。その集会には、教祖麻原やその弟子たちの死刑にも反対してきた弁護士たちが来ていた。弁護士たちは彼らの罪は罪として見て、それでも死刑はやめなければならないと主張してきたのだ。

そのアレフの幹部は集会が終わると弁護士たちのところへ行き、深々と頭を下げてお世話になりましたと礼を言っていた。弁護士の一人は涙声でその幹部に語りかけていた。

私は絶対にわかり合えない、どうにもならないと思ったとき、あのアレフの幹部のことを思い出す。粗末な服に運動靴をはいて、よたよたと歩き、一人ひとりに丁寧にお辞儀をしてまわっていた彼のことを。それがたとえアレフがオウム時代にしたことを十分に反省できず、だからこそ死刑を受け入れられない身勝手な思いから出たものであったとしても、あの幹部の姿が目に焼き付いて離れないのだ。

人は自分の生き方を自由に選べるように思っているが、実はそうでもない。カルトに入る人、反ワクチンという生き方をしなければならない人、それはそれぞれに深い業があるのだと思う。私もそうだ。私自身も自分の正義を握りしめる凡人だからこそ、対話の可能性を諦めずに歩んでいきたいのだ。いや偉そうなことを言っても、今日は電話を切ってしまったのだが。

3億の邸宅

なんだか、残念な話を聞いてしまった。

私のいる真宗大谷派門首の公邸を建てるのだそうだけど、それが3億円なんだそうな。旭化成ヘーベルハウス。土地はすでにあるので、上モノだけで3億円。かなりの豪邸である。

門首とはかつて法主と言われていた。宗憲には〈門首は,本派の僧侶及び門徒を代表して,真宗本廟の宗祖聖人真影の給仕並びに仏祖の崇敬に任ずる〉とある。

どうして残念に感じたかというと、私は真宗大谷派に来る前は浄土真宗親鸞会という団体にいた。そこをやめた理由の一つが、親鸞会の会長の高森顕徹さんの豪邸だったのだ。会員がコツコツとお金を納めて建てた様々な建物に、彼は豪勢な自分専用のスペースをこしらえていて、それは末端の会員には決して知らされることはなかった。

私はそういうのを見てきて、本当に嫌になったのだ。こうやって特別な人を作って、普通では考えられないようなお金をかけて必要以上の邸宅を作るのが、実に俗っぽくて嫌だった。そんな高森さんでも、さすがに3億ということはなかったと思う。だから、残念な気分になった。

話を大谷派に戻すが、おそらく、こんな豪邸は門首が望んだことではないだろう。ちゃんとしたプロセスと、教団幹部の合議を経て決めているのだから。おそらく、大教団の門首にふさわしい公邸をとか、長く使うのだからとか、いろいろと最もらしい理由を重ねて建てているのだろう。別にそれに文句を言うつもりはないが、教団の象徴的トップに豪邸をという発想自体が嫌である。

だって我々の教団は同朋教団じゃなかったのか。具縛の凡愚・屠沽の下類を「われら」として共に歩む教団じゃなかったのだろうか。まあそんな建前はまったく信じてないけど、「大教団にふさわしい」とか言う人が同じ口で「同朋教団」などと口にするシーンは今までもよく見てきた。やれやれ、それならむしろ我々は貴族教団だと広く宣言したらいい。

かつて門首は「法主」と言われていた。その法主が教団を私物化して財産を散逸させたとかいうので、多くの犠牲を払ってさんざんに争いをして追い出したのが、私達の教団の歴史である。その後、前門首が困難な後継を引き受けてくださり、そのあとを継がれたのが現門首である。私はそれは尊い、尊敬するべきことだと思う。こんな重い宿痾を背負って共に歩んでくれたのだから。

ただ、「法主」のときの様々な権限は奪われ、門首の影響や発言力は皆無に等しい。結局の所、親鸞聖人の血脈を受け継ぐ以外に門首門首たる裏付けは見当たらない。その人の人格、能力、思い。それらをどこかに閉じ込めたまま、ただ血を受け継ぐために利用されているように見えても仕方がない。教団を引っ張っていくような法主は要らないが、教団を権威付ける「血」だけは欲しいのだろうか。

釈尊は、人は生まれによってバラモンになるのではないと説いた。しかし私達の教団は、人の尊厳を生まれによって踏みにじっているように思える。その重大な問いを押し付ける対価として3億という金額を出したのなら、これは大谷派という教団を構成する私達が背負う「うしろめたさ」が生んだ金なのかもしれない。

もっとも、これを払うのはそんな事情とは何の関係もない、こつこつとお寺にお金を納めてきた末端の門信徒の方々に他ならない。これを茶番と言わずになんと言えばいいのだろう。

これ以上残酷な宗教はない

昔書いた雑文を少しずつここに載せていこうと思っています。

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 新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、仏教宗派は様々な声明を行った。曰く「仏の知恵に学ぼう」「差別しない、排除しない」「人間性の回復」「つながりの本来的な意味と大切さに気づく」など。仏教は、人類社会に有益な指針を提供できると思っているのだろう。

 こんなことは過去にもあった。仏教者による戦争法案反対の集会では「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」との法句経の言葉が主張され、ポスターや横断幕にも大きく書かれていた。

 しかし終了後の懇親会で楽しそうに酒を飲む彼らに、「不殺生」を言うのに「不飲酒」は良いんですかと聞くと鼻で笑われる。そして「殺してはならぬ」はすべての生き物に対してのことなのに、そこから動物の殺生の是非を問う人は、誰ひとりいない。

 感染に関わる差別について、仏教の平等性からの問題提起もよく見た。しかしその一方で、ある真宗教団は大乗仏典の女性差別を問題にするパネル展示を一方的に下ろさせたりもしたし、衣の色で教団のカースト的なヒエラルキーを露出することにも何の躊躇もない。

 結局は社会と自分が正しいと思っていることを仏教の名で語らせているだけで、オウムの麻原が仏典の記述を根拠に殺人を正当化したのと、あるいは戦争協力の根拠を経典に探した戦前の教学者の営みと、方向性は真逆に見えるが根本においてはそう変わらない。つまり時代の価値観にあった教えを仏教の教理から探し出し「ほら、仏教ってこんなにいいもんでしょう」と、仏教と仏教者の存在価値の根拠にしているだけなのだ。

 布教先で阿弥陀如来の救いの平等性を話していたとき、私に訴えてきた人がいた。その方は若い頃に悲惨な性被害に遭い「すべての人が救われても、あの人だけは地獄に落ちてほしい。あの人も救われると言うなら、これ以上残酷な宗教はない」と言い切った。

 宗教は本来世俗の価値観を根底から揺るがす何かを持っている。しかし社会から見捨てられる怖さから、私達はその「何か」を、その時代の「正しさ」というオブラートで包み続けるのだろう。

中外日報随想(1)(2020)

沈みゆく教団

これは愚痴というか独り言です。坊さんじゃなかったら読んでもあまり面白くないと思う。

私は浄土真宗の末寺の住職なわけだが、浄土真宗ってのは二つの大きな流れがある。本願寺派(お西)と大谷派(お東)がそれであり、私は後者だ。他にも色々あるだろ!というツッコミは当然あると思うけど、大きな流れといったらこの二つになるのは自明だと思うので勘弁してください。

で、たまに本願寺派の学校がやっているWEB講座に参加しているのだ。昨日参加したのはZoomでやっているもので、奇をてらわず、淡々とお聖教を読んで解説するものなんだけど、参加者は100人を超えていた。大半は一般の方である。そんな講座をこの学校は週に2~3回、一年以上続けている。

本願寺派は他にもこんな講座がたくさんある。関係者だけのものもあれば、開かれたものもあるけど、コロナ禍で通常の講座ができなくなってから随分増えた。お昼の定例法座も毎日中継してる。

私は本願寺派の法座って正直あんまり好きじゃない。喜びやありがたさをあまりに強調しすぎているから(もちろん人によるけど)。あんまりひどいのになると、阿弥陀さんが救ってくれるんだから、お前もありがたく思え!!とツボでも売りつけられている気になる。

でも、教えを聞く営みを大事にしているのはひしひしと伝わってくるのだ。「大乗」とか「季刊せいてん」という彼らの機関誌も読んでいるけど、教えを伝えたいって思いがストレートに伝わってくる内容だ。

で、我らが大谷派は、そういうWEB講座は殆どない。唯一「専修学院」という学校が始めたけど、これも主には卒業生が対象であって熱心に宣伝しているわけではないし、ひょっとして他にもあるかも知れないけど、ほとんど伝わってこない。たまに有名な先生の講座がメールで送られてくるが、受講対象が限定されていたり単発的であったりで、開かれた地道な講座とは言えないだろう。

一応「真宗会館」という大谷派の東京の出先機関が比較的熱心にYoutube法話をアップしているが、どうも知識人や文化人を出してきて、それを坊さんと対談させる動画をメインに推している感じである。

大谷派は機関誌もそうで、その時のはやりの知識人を連れてきて、坊さんと対談させる企画が扉を飾る。なんだか一昔前の大企業の社内報みたいである。社内報でのこの手の企画は、企業の偉い人が有名人と対談して箔をつけるくらいの意味しかなかったが、大谷派のそれも似たような印象しかない。

お聖教を読み、その解説をし、それについて語り合う。長い時間を書けて営々と続いてきた取り組みが、コロナで急速に失われているのに、ただ失われるのを呆然と見ているだけが我らの宗派のような気がする。個人では対処が難しすぎる問題で、本当はこういうときこそ組織のバックアップが必要なんじゃないかと思うが、私が知る限り、本当になにもないのである。

私自身は去年の4月からずっとYoutube法話を配信し、Zoomで経典講義をしてきた。そこに来る人で、何人か「親鸞会のネット講座から来た」という人に出会った。親鸞会とは浄土真宗新宗教で、以前私が在籍していた教団なのだが、勧誘のために教団名を隠してネット講座とかやってる問題のある所だ。そこで講座を聞いていた人たちが、なんか変だとかおかしいと思って検索して、私の講座にたどり着いてくるのだ。

聞きたい人は親鸞会のダミー講座だって聞くのだ。大谷派がやらない理由はなんだろう。聞きたい人がたくさんいるのだから、やれば必ず来る人はいると思うのだけど。

こんなのは隣の芝生はなんちゃら、なのかも知れない。けど、私のいる大谷派という教団は、いま深刻なアノミーに陥っているように思う。

自分たちの求めている「浄土真宗」という教えが空洞化してしまって、800年これをやってきたのに、果たして浄土真宗の救いとはなにか、念仏とはなにかが、根本的にわからなくなってしまっている。いや安易に分かった気になるのも大問題で、わからないならわからないことに真正面から向き合えばいい。それが宗教だろう。

しかし大谷派はそれもせず、「拠り所」「出会い」「共に生きる」といった世間受けの良い言葉で、教えの核心を置き換えて宗教色を薄めてしまった。そうなると、もう浄土真宗でなくても、いや宗教である必要すらあまりないのである。だから、有名人や文化人を呼んだりして、社会の問題と照らし合わせながら、浄土真宗の「価値」を箔付けしてもらわなければ、やっていけなくなった。

大谷派というのは多様な考えや立場の集合だから、「大谷派」という乱暴なくくりでこんなことを論じるのはいささか無茶があることは分かっている。しかし、私と同じくこの教団に属する人がこれを読めば、なんとなく私の言いたいことは分かってくれるのではないか。

今回は、身内の話で申し訳ない。

縦長スマホと電子書籍のもんだい

先月、スマホをXiaomiのRedmi Note 10 Proってのに乗り換えた。これはこれで大変満足している。安いし画面きれいだしカメラもいい。FeliCaが使えないのがちょっとネックかなと思っていたけど、愛用しているGarminのスマートウォッチでSuicaが使えるので問題ないです。

で、昨日法話に行ってたお寺の住職さんに、うぁあ新しいスマホ買ったんですね!Xiaomi?なんですかそれ。Androidですよね。iPhoneじゃなくて使いにくくないですか?みたいなことを一通り言われたのでありますが、昔だったらフンガーiPhoneが何じゃオレはAndroidのほうがいいんじゃ!!!ってムキになっていたけど、今はもうそんなことはしないです大人ですし。「まだiPhoneで消耗してるの?」みたいな謎の笑みを浮かべて乗り切りました。オレえらい。

それはいいとして、これって今どきのスマホなのでむっちゃ画面が縦長なんである。そのおかげで、画面を二分割にして(iPhoneはできないだろー)、何かを閲覧しながらLINEの返事をしたり、とかはとてもやりやすいんだけど、電子書籍がむっちゃ読みにくい事に気づいた。

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こんな感じです。見にくいと思いませんか。これは楽天Koboのアプリなんだけど、これで読むと目の上下移動が多くてものすごく疲れる…もう少し上下の余白を多く取れるといいんだけど、Koboは一切そんな設定はできない。Kindleはできなくもないんだけど、余白を最大にとっても「ものすごい縦長」であることは変わらない。

しょうがないので、横にしてみる。

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見にくい…

私はけっこう長いこと「仏教書の電子書籍化」というプロジェクトをやっていて(響流書房っていいます)、仏教書を電子化するたびに「紙のほうが見やすい、紙にせよ!」という、ラーメン屋にうどんを出せと言うが如き謎の苦情を受けるんだけど、みんなのスマホがこんな感じになっちゃ、電子書籍は厳しい。

もちろん、KoboならKobo niaみたいなe-inkの専用端末があるし、KindleにもPaperWhiteなど同様のものがあって、これらはバランスの取れた縦横比だし、フロントライト付きのe-inkディスプレイは紙の本よりも読みやすい。私も電子書籍を読むのはもっぱら専用端末だけど、電子書籍を初めて使う人はだいたいスマホで読むのである。最初がこんな感じだと、嫌になってしまわないかな。

電子書籍は漫画についてはすごい勢いで普及してきたが、文字の本はまだまだ紙で読む人が多いように思う。もう少しアプリの側で工夫してくれたらいいのだけどなあ。とりあえず上下の余白をもう少し広めに設定させていただけませんでしょうか…