ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

【真宗大谷派】教師資格検定のすゝめ

こんな記事を読みました。

note.com

住職になるための具体的な方法を書いている記事で、こういうの書いてもらうと助かるなーと思う一方、少し誤解を生じる箇所があったように思いますので、私なりに補足します。

で、あらかじめ断っておきますが、私今すごく忙しくて、かなり雑な書き方になります。ほんとすみません。

気になった部分はこちら。

⑤教師試験検定を受ける。

 上記①から④は「無試験検定」と呼ばれる。所定の時間数、単位を取得すればクリアーだ。一方で今から紹介するのが最終手段である「試験検定」。本山で年に2回開催されるテストに合格したら資格が取得可能だ。各学院に通うこともできないハードワーカーはこの試験が最終手段となる。

 試験は真宗学、仏教学、法規、声明作法、小論文(面接)であり、それぞれに合格点が設定されている。すべての試験で合格すれば晴れて完全合格となる。救済措置としては3年間有効な科目合格という制度があるため、3年間かけて勉強して完全合格を目指してもいい。極端な話、3年✖️年2回で合計6回も試験を受けるチャンスがある。

 ただ、当然大学で4年間、詰め込みでも平日全てを捧げて1年間という内容を試験の合格に変えるのだから本当に難しい。なによりもこれで資格を得られたとしても人脈が何もないのだ。

 仏教を学ぶ上で友がいない、師がいないのは大変なディスアドバンテージ、というか無理である。

 私のおすすめとしては並行して真宗学院に通うことをお勧めしたい。試験に落ち続けても3年経てば卒業できるのだから。仕事の都合がある方もいるだろう、しかし住職とはそれだけ重い責任を有するのだ。この試験検定は本当に最終手段と考えてほしい。

私も大谷派の有教師であり住職なんだが、検定で教師を取った人間である。当時は働いて家族を養っていたし、週末に真宗学院に通う余裕もなかったので必然的にそうなったのだが、当時から検定で取るのは勧められないと教務所の人からは言われたし、住職になってからも「検定で資格取ったの?かわいそう」とか言われた(なんでや)。

なんか大谷派では検定で資格を取ることが、他の手段に比べて劣ったもののように捉えられていると感じることが多く、とても複雑な気持ちにいなる。

だから、教師資格検定の良さをここで書いておきます。みんなほんと検定で教師取ったら良いよ!

検定の良さⅠ 最短で取れる

専修学院に行っても教師を取るのは一年くらいかかりますが、検定だと最短半年くらいでいけます。教師修練含めても一年もあれば十分。急いでいる人は検定一択だよね。

検定の良さⅡ 試験はそんなに難しくない。

上の記事では試験が本当に難しいとか書いてありますが、そうでもないです。教科書をしっかり読み込んで、過去問を五年分位解いたら普通に受かります。(私の周囲の人達もみんなそうやって受かっています。大丈夫)

世間の資格試験とかを受けたことのある人なら、それとそう変わらないから大丈夫。私も情報処理の国家資格を取りましたが(ソフトウェア開発技術者とかそういうの。今は名前変わってるみたいだけど)、それと比べても難易度は低め。簡単じゃないけど難しくもない。フツーです。

しかも、一度合格した科目は三年間保持できるので全部いっぺんに合格しなくても良いんです。なんという温情資格だろうと思いますよ。みんな受けようぜ。

勉強の仕方とかは一応こんなYoutubeもあります。

www.youtube.com

検定の良さⅢ 圧倒的安さ

お金が一番かからないのが検定です。今も多分10万円以内くらいで済むと思う。大学や専修学院に行くと数百万、真宗学院でも交通費含めたら100万円くらいはかかるんじゃないかな。

さて、検定の良いところはわかった。それじゃあ、検定にデメリットはないのか。そういう不安を解消していきますね。

検定の不安Ⅰ 勉強するには先生がいるのでは?

まあ確かにそれはありますよね。心配なら、僕がいる京都教区では年に一回教師資格検定の事前勉強会をやっていて、それは他教区の人でも受けられる。多分他の教区でもそういうのあるから、不安なら探して行ってみたら良いと思います。教務所に聞けば教えてくれます。地元の勉強会に行っても良いと思うし、いくらでも道はあるよ。

検定の不安Ⅱ 友達ができないのでは?

いやなんか意味分かんないんだけど、世間のいろんな資格取るのでも、独りで勉強して独りで取ってる人なんていくらでもいるでしょう。友達が無くても困らなかったし、僕はそれでいままでやってきました。

検定の不安Ⅲ 人脈が作れないのでは?

教師修練で色んな人と触れ合うし、お寺に入ったり住職になったりすれば、近隣寺院との付き合いや教区の研修会なんかで人脈は出来るのでなんの問題もないです。

検定の不安Ⅳ 住職になるのは重い責任なんだから、検定だけで取ろうなんて考えがそもそもダメ。ちゃんと真宗学院とかいって勉強するべきでは?

何いってんの。検定はそんな難しい資格試験じゃないって言ったけど、当然ちゃんと勉強しなかったら受からないよ。勉強しようぜ!

あと、私の周囲の人たちで熱心に教学やってる人に検定合格者はわりと多いんです。私たちがやっている、「親鸞仏教オンライン学舎」のスタッフも、実は一番多いのは検定で教師を取った人です。

つまりどんな手段で資格を取ろうと関係なし。大谷大学の大学院を卒業しても、その後全然勉強しない人もいれば、検定で合格してその後もコツコツと学ぶ人だっている。その人次第ですから。

shinran.online

最後に…検定は他の手段が取れないときの最終手段なのか?

ちがいます。教師資格検定は大谷派が定めた正式な教師資格取得手段です。他の手段と比較して劣後しているとか最後に選ぶべきとか、そんなことは一切ありません。そんな事言うやつがいたらうちのネコのウンコをレターパックで送りつけるぞ!

だからさ、胸張って堂々と検定を選んでください。

私からは以上です。(書いた人は2010年検定合格組です)

ヴァイオリンを買ったのだ

ねんがんのヴァイオリンをてにいれたぞ!

そう、ヴァイオリンを買った。生まれて初めて楽器を買った。

ヤフオクで勢いで中古のヴァイオリンを買ってしまったのだ。鈴木バイオリンというメーカーのもので、未だにヴァイオリンが自分の手元にあることが信じられない。

きっかけは、Youtubeでたまたま出てきた、amazonで1万円のヴァイオリンを弾いてみう、という動画だった。プロのヴァイオリニストが1万円で買ったヴァイオリンを弾いて、そんなに悪くないですねーと言っている動画だった。

youtu.be

つうか、ヴァイオリンって1万円で買えるのかよと驚いた。実際にamazonを検索してみると、そのくらいの値段で確かにヴァイオリンは売っている。ヴァイオリンってもっと高いものかと思っていた。プロが使っているのは数百万から数億のものもあるし、初心者向けでも数十万くらいするだろうと。

しかし1万円である。なら買って弾けなくても、別にインテリアで置いとけばいいじゃないかという気にもなる。実際、高い本を買っても読まなくて、インテリア化しているものは何冊か有るし。

そんなことをSNSでつぶやいたら、ヴァイオリンをやってきた人って思った以上に多いみたいで、色々アドヴァイスをもらった。つまりは、1万円のヴァイオリンはやめたほうが良くて、ちゃんとしたやつを中古で買ったほうがいいよ、と。

それで、29,800円で前述のスズキの「ちゃんとしたヴァイオリン」を買ったのだった。仕事のものなら3万円くらいのものどれだけでも買ってきたが、純粋に趣味でこんなお金を使っていいのかと悩んだ。しかしもう50歳なのだ。自分のためにこのくらいのお金を使ってもいいじゃないか。

ヴァイオリンは翌々日に届いた。段ボールを開けると本当にヴァイオリンが入っていた。全く現実感がない。

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小学校のとき、音楽の時間に聞いたロッシーニの「ウィリアムテル序曲」に夢中になった。音楽の先生にもっとこういうのを聞きたいと言うと、チャイコフスキー交響曲第4番がいいよと教えてくれた。

なんでチャイコフスキーの4番やねん。ベートーヴェンの「運命」とかドヴォルザークの「新世界」とか「初めて」の定番がいろいろあるやん!と今になると思うが、なんかしらんけど先生はそれを勧めてくれたのだ。当時家にはCDプレーヤーもレコードプレーヤーもなかった。父に頼むとミュージックテープを買ってきてくれた。レーベルはグラモフォンで、カラヤンベルリン・フィルを指揮したものだ。擦り切れるほど聴いた。

その後、もっと色々聞きたいと思ったが、小学生には高い買い物でそうそう買えなかった。NHK-FMがクラシック番組を盛んにやっていたので、それを録音して聞くようになった。好きだったのは吉田秀和の「名曲のたのしみ」だった。私は毎週吉田秀和を聞く変な小学生になった。

そうなると楽器をやりたいと思ったが、決定的にセンスがなく、リコーダーすら人並みにできなかった。高校時代は友人に誘われてギターをちょっとやってみたが、Fのコードが押さえられなくて挫折した。一時期吹奏楽部に入りたいと思ったが、足手まといになりそうで、その勇気もなかった。

大学は比較的渋谷に近く、NHK交響楽団定期演奏会に頻繁に通った。学生は当時千円でNHKホールの3階席に座れたのだ。常任指揮者はサヴァリッシュで名演を浴びるほど聞くことが出来た。クラシックを聴くのは自分のほとんど唯一の趣味だった。

でも楽器は何も出来ないのである。音楽が好きだよ!というと、楽器は何かされてるんですか?と、ほとんど反射的に聞かれるが、マジで何も出来ない。聴くだけである。もちろん聴くだけでなんの差支えもないが、自分で弾けたらどんなにか素敵だろう。

それが、いま、私の手元にヴァイオリンが有る。何百回とステージの上に見た、あのあこがれのヴァイオリンである。

うん、どこから見てもヴァイオリンだ。すげえ軽い。中が空洞なんだから当たり前だが、こんなに軽いとは思わなかった。

試しに弓で弾いてみてもなんだかスカスカした音しか出ない。松脂を塗らなければならないらしい。あとは持ち方もわからない。肩当てもいるらしい。どうやってチューニングしたらいいのかもわからない。チューナーがいるらしい。わからんところは全部YouTubeの「ひとみ先生のヴァイオリン教室」で習った。そして必要なものを買い揃えた。ひとみ先生、ありがとうございます。

そういえば、新幹線で隣りに座った人から「瓜生先生ですよね、YouTube見てます!」と言われたことがあった。自分も新幹線で隣に「ひとみ先生」が座っていたら声かけちゃうかもしれない。大迷惑だろうけど。

で、全く楽器演奏のセンスのない私が、教本(スズキ・メソード)を買って、一日15分とか30分とか、少しずつ練習を進めている。躓くとYouTubeを見て「ひとみ先生」に教わる。こんな難しい楽器をどうしてと思うけど、案外それが良かったように思う。何しろこの楽器は、持って抱えてるだけで楽しいし、開放弦に弓を当てるだけで美しい音が出る。ヘタクソだって恥じる必要もない。そもそも難しい楽器なんだから。

別にアマチュアオケに入るわけでもないし、弦楽四重奏をやるわけでもない。どこかに習いに行くわけでもなく、教本を見ながらたどたどしく演奏するだけである。なのに、自分が何者かになれたような気がする。不思議な楽器ですね、ヴァイオリン。

一番うれしいのは、「何か楽器はされてるんですか」と聞かれたときに「ヴァイオリンです」と答えることができるようになったことだ。誰か聞いてくれ。

でも、誰もそんなこと聞いてくれないし、家族ですら僕のヴァイオリンに関心持ってくれないんです。いいんだけど。

小さな居場所

コロナ禍のときに、反ワクチンの人から毎日のように電凸を受けていた事があった。私みたいなしがない末寺の住職に、こんな暇なことよくやるよな、どんなモチベーションなんだろ、と思っていた。

後で人から教えてもらったのだが、その電凸の人は私を追い詰めていく経過をツイッターで報告して、それを称賛するリプが結構ついていた。私にこんなこと言われたとか電話を切られたなどのことを逐次書いていて、それが一種のエンタメとして周囲に消費されていたのだ。

人間ってやっかいである。何者でもないものが何者かになろうとして、自分の存在意義を認めてくれる場所を探し求める。かといっていきなり大海原に出るのは恐ろしいので、そこそこの正義とそこそこの悪を見つけて叩くことでそれを満たそうとする。滑稽としか言いようのないこんな歩みも、SNSに作った小さな世界なら認めてくれる人もいる。それが最後の拠り所になって、自分は賢く、正しくこの世界を見れているのだという驕慢は破られず、やっていることの小ささに気付けない。

思えばこんな光景を幾度となくみてきたなと思う。ひょっとしたら自分のやっていることもこの延長にあるのではないかとふと思う。私の場合は、自分への酷評が常に目に入る場所に立たざるをえないのが唯一の救いだろうか。

【告知】岡林俊希(愚聞)氏のFacebookでの発言について

本願寺派の輔教である岡林俊希氏(岡林愚聞氏)が、ご自身のフェイスブック上で、「滋賀の化け猫だけは絶対に許しません。分身の術を使ってインターネットであることないこと発言し、私の信仰の上で大切なものをふみにじりました。過去の悪業のデーターがあるので、あまり調子に乗ると容赦しないと誰か伝えてあげてください。」と発言されていました。

本件について、私(瓜生)は滋賀県民で、無類の猫好きで猫住職と言われており、現在教義上のことで私が岡林氏から異安心と批判されている関係から、「滋賀の化け猫」とは私について言われているのではないか、岡林氏は私怨で瓜生を異安心と批判しているのか、と複数の方から連絡がありました。

私としては岡林氏の言われるような事をした覚えはなく、真意を確かめるために岡林氏本人に直接尋ねましたが、「瓜生のことではない」とお答えを頂きましたので、岡林氏の名誉のためにも、ここに告知します。

言うまでもないことですが、インターネット上で人の信仰をふみにじるような行為は、あってはならないことです。

なお本件(ネット上での告知)は、岡林氏の同意を得て行っています。

2024/05/23

強い信仰

Youtube法話を公開するようになって四年経つが、SNSとかで随分叩かれてきた。見なければいいのだが、親切な人が教えてくれたり(教えてくれなくていいよ)、批判に耳を傾けないのもどうかなと思ったりして、つい見てしまう。見てしまうと「あー、見なきゃよかったなぁ」と思う。法話の内容だけならいいが、人格的なところをボロクソにいわれたりしているのを見ることもあり、若干凹む。表で見れるものだけでもこの始末だから、影ではこの十倍くらいは言われているのかなと思ったりもする。見えなきゃ関係ないのだが。

それでも、私は親鸞会をやめてからずっと叩かれてきたし、悪い意味で慣れてしまって、受け流すのもうまくなってしまった。でも、私の場合は狭い閉じられた世界の出来事だからそれが出来るので、比べ物にならないほどの批判をネットで受けて自死された方のニュースを見ると胸が痛む。「こいつは叩いていい」と思うと、人間はとことんまで叩くのだろう。

長く宗教をやってきて、信仰を武器に人が人を叩くのを数限りなく見てきた。この教えでなければ救われないという思いが、ときに人を残酷にさせる。あらゆる戦争の中で宗教戦争がひときわ凄惨なものになるのはこのためだ。十字軍でイスラム教徒を殺せと叫ぶ人は、一方で誰よりも敬虔なクリスチャンなのである。

仏教では堅固な菩提心を「金剛心」という。しかし強い信仰とは本来厄介なものである。固いものはガラスのように割れやすい。なので信仰という城壁を築き、その外にいる人間を見下し、異なる信仰を攻撃し、同じ信仰を共有する仲間たちで頷き合って、共同幻想の中で信仰を守ろうとする。それが一番居心地がいいのだ。

これを無量寿経には「疑城胎宮」といい、疑いの城に閉じこもり胎児のように閉ざされ、宮殿のように居心地の良い世界とした。それはあらゆるものの救済を誓った本願を聞きながら、信仰の外に救われない人間を作り出すことで自らの救いを確かなものにしようとするから、信じているように見えて実は最も深い「疑い」なのだ。

そして親鸞聖人は浄土教における「金剛心」とは、自分が起こすものではなく、阿弥陀仏衆生救済の心であり他力であるとした。もっとも私達はやっかいなもので、そう聞いても自分の中に「金剛心」を作り上げ、これは阿弥陀仏より賜ったものだと思い込む。これを親鸞聖人は「自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に退失傾動せられざるなりと」と善導の言葉を引用して見ていく。

しかし自己の固い信仰の殻に閉じこもり相手を見下すのは「疑城胎宮」であるが、その人を「疑城胎宮」であると批判するところにも「疑城胎宮」は存在する。

真実に遇った人間は固い信仰を獲て真実になっていくのではなく、真実に遇うことでどこまでも自分の不実を知らされるのだが、「私は不実である」といいつつ、不実であることを自覚できた自己に慢心するのであり、不実ささえも自己の信仰立脚の手段に使おうとするのだ。

「悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するが故に、出離、其の期無し。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰し叵く、大信海に入り叵し。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」と親鸞聖人が悲嘆されたのは、まさにこういうところだと思う。

釈尊は自分の父を殺して王位につき、その呵責に苦しむ阿闍世に対して、月愛三昧という月の光のような柔らかい光を放ち痕を癒やした。仏陀の光は太陽をも超越するはずなのに、なぜ月の光なのか。教団を分裂させ自ら仏陀となろうとした提婆達多の「強い信仰」によって傷ついた阿闍世にとっては、強い光はかえって苦しみになったからではないだろうか。

眩しいほどの光は深い影を作る。そして強い信仰も時として人を傷つける。それでも私達は信仰の不確かさに耐えられず、自心のなかに「強い信仰」を作ろうとしてもがき苦しむのかもしれない。

岡林俊希さんの問題提起にお答えします

みなさんこんにちは。私は東近江市にあります真宗大谷派玄照寺の住職をしております瓜生崇と申します。

実は、私の法話についての問題提起を、浄土真宗本願寺派の岡林俊希さんが書いてくださいました。

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内容についてはお読み頂ければわかるかと思いますが、かいつまんで言うと、私の法話本願寺派の安心論題では疑心往生という異議・異安心であると、岡林さんは言いたいようです。

このことは友人から聞いていましたが、私としては特に取り上げる必要は感じませんでしたし、読んでもいませんした。なぜならそもそも私は本願寺派ではないので、あなたは本願寺派では異安心なのだと言われても、それに積極的に応じる意味を感じられなかったのです。おそらく岡林さんが仮に「あなたは大谷派では異安心だ」と言われても同様に感じたのではないでしょうか。

ちなみに私が浄土真宗の救いをどのように受け取り、その根拠は聖教上のどの言葉に基づくのかは普段から話をしておりますし、Youtubeでも発信しています。実は先日の配信で、岡林さんの問題提起から生じたと思われる質問に応答しました。この時点で私は岡林さんの論考をよんでいませんでしたので不完全なところはありますが、教義解釈的にはあらかたお答えしていると思います。

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本願寺派の教義安心と私の主張

さて、ならばどうしてこれを書くことになったのかというと、氏の論考を読んだ方から、これが本当に私の主張なのか、また岡林さんの主張は本願寺派の正当な解釈で、これ以外の解釈は異安心として排斥されるのかと質問があったからです。それにお答えするために、私も重い腰を上げて読んでみました。

一読して「私の言っていることを誤解しているか、ちゃんと聞いてくれてないな」と思う部分が随分ありました。それについて、あくまで本願寺派の教義解釈の話ですから、本願寺派の諸師の見解を仰ぎつつ確認してみます。

まず1つ目、岡林さんが上げる、「瓜生の異議」(私の発言を岡林さんが切り取って異議として批判しているもので、かならずしも私の主張そのものとは言えませんので、カッコ付きで「瓜生の異議」としています)はこれです。

・瓜生師は凡夫の疑いがなくならないという親鸞聖人の根拠を示す
・無上上は真解脱 真解脱は如来なり
 真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるる (諸経讃)
(これは疑心往生説をとなえる人がよく出す根拠で、ここの疑は例外で本願を疑う心ではなく煩悩の意味とされる。聖人のご著書では信を得れば疑心はなくなるとされるところの方が圧倒的に多い。聖人は信心をうたがいなき心、無疑心とされる)

についてですが、実はこれは梯実圓和上(本願寺派碩学)が仰っていたことなのです。

youtu.be

本願を疑いなく受け入れるということは、これ実は私に出来ることではない。

人間の特徴は計らうことが特徴。計り知ることとは分別して、これはこれ、あれはあれと分けて、間違っている正しいと決定して、決定に向かって行動していく。これが人間の心ですから、人間の心は分別を本質としている。自分の分別をまじえないで受け入れるというのは不可能です。

信心はどこで成立しているのかというと、疑いのない心というのは如来にしか無いのだと親鸞聖人は言い切ってしまう。

和讃に、「真解脱は如来なり 真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるる」とある。つまり煩悩が完全にないという状態と、疑いが完全にないという状態は、ただ如来にのみあることで、人間にあることではない。

人間にあることでないはずの無疑が人間にもたらされるのが本願の信心なんだ。信心は人間が起こせるものではなくて、如来から賜った心なのだ。

人間の心はどれだけひっくり返したところで、疑いなき心は出てこないんだ。したがって信楽というのは、如来の上にだけあることなんだ、というんです。(太字は筆者)

書き起こしているのは要点だけですから是非実際の動画を見てください。また、同じ梯和上の講義録「化巻」「三経通顕(真仮分判)」では、

私が「疑い無くなろう」なんて幾ら考えてもそれは無理です。人間の心は疑いの塊みたいなものですから、だからそんな人間の心を疑い無くしようと思ったって、それは無理というものです。死ぬまでその心の性は無くならないのです。それが人間の心の持ち前なのです。ですからどうしようもない。その自分の心をチャンと疑いのない綺麗な心にしろなんて仰ってはないのです。ですから疑いのない心というのは自分の方に見たらダメです。

それを「信は仏辺に仰げ」と言うのです。信心は仏様の側に仰ぐのだと。信心は自分の方にありながら仏のものだから信は仏辺に仰げというのです。そして反対に「慈悲は仏様の側に見るのではない」というのです。如来のお慈悲といったら仏様の方を見ようとする。だから解らなくなるのです。

ここには岡林さんが私を異議と断じている根拠がすべて入っています。ならば、梯和上は異義なのでしょうか。もちろん発言の一部だけ切り取ってしまえばそうも言えるかも知れませんが、違いますよね。太字の部分を読めばわかるように、和上は「信心は如来の上にあるのだ」と仰ってるだけなのです。

そして私も同様に、「凡夫の疑いがなくなるのが信心ではなく、如来から真実心である名号が届いたことを信心という。その名号を聞くという一念において、凡夫の身に『疑心あることなし』という信心が成就する」と、事あるごとに話しています(おそらく何千回と言っています)。

そこを意図的に省いて論じるのは悪意すら感じられますし、私は「疑いあるがままで往生する」と言ったことは一度もないので、疑心往生の異議と言われても困るのです。

他に指摘されている「瓜生の異議」としては、

・本願を信じているという人は、自分で自分の心をながめて正しいと思っているだけ。

この岡林さんの取り上げ方もずいぶん断章的かつ作為的すぎると思います。おそらく岡林さんが取り違えているのは、稲城選恵和上(本願寺派碩学)の言葉を借りれば、

他力の信心の性格は、自らの側に「体」の存しないところに特異性があると思われる。このことも全く、常識の上では理解出来得ないであろう。一般に信ずるとか、信仰するということは、信ぜられる対象に向かって間違いないと思っていること、確信していることであると思われる。しかるにこの思っている自己がたすかることに直接するならば、自らの心のはたらきを媒介とすることとなる故に、自力の信心である。才市の歌に次の如きものがある。

「胸にさかせた信の花、弥陀にとられて今ははや、信心らしいものはさらになし、自力というても苦にならね、他力というてもわかりゃせね。親が知っていれば楽なものよ」

彼のこの句をみると、いかに自らの側に「信心」という「ものがら」を作ることに力をいれたかがわかる。この自らのかためたものがすべて他力の法の前では否定されるのである。それ故、他力の信心といわれるのは、信心という限り機受の側でいうのであるが、それは相であって、体ではない。稲城選恵『真宗安心の根本的問題』)

ということであって、真実信心とは、本願力によって回向された名号が私に届いている相であって、根拠は名号にある。どれだけ「お念仏を喜びありがたいと思っている」とか、「信知していると思う」と言っても、その思いそのものは真実信心ではないですよ、と言っているのであって、その文脈のごく一部を切り取られたにすぎません。

もう一つ岡林さんの指摘する「瓜生の異議」を論じましょう。

如来様は無分別のお方であるから、一切の差別をされない。信じる・疑うという人の心の状態で救いを分けるはずがない。

ここは、教行信証に、

疑・愛の二心、了に障碍無からしむるは則ち浄土の一門なり。未だ始めて間隔せず。弥陀の洪願、常に自ずから摂持したまう。必然の理なり。(信文類)

とあるところを私が解説したことについて言っているのでしょう。これについては私が説明するよりも本願寺派碩学の言葉を引用しておきます。

「かっていまだ聞かず。自弊自蔽をもって説をなすことあるものを、得るによって以てこれを言う」という誇らしげな自信ある言葉。また「ただ疑愛の二心ついに障碍なからしむるは、則ち浄土の一門なり。いまだ始めて間職せず、弥陀の洪願つねに自から摂持したまう。必然の理なり」かくいいきる願への絶対の信。愛着は出離をさまたげ、疑いが聞法のさまたげとなるものであるが、しかしこれらの疑愛の煩悩も弥陀の洪願はいだき包んでしまうのである。この本願の洪大さをわたくしたちはじっくりと味いたい。疑・愛もまた他力回向の真実の信をさまたげることはできないのである。親鸞は誇りと自信をもってこの句を書いたに相違ない。(星野元豊『講解教行信証』)

補足すると岡林さんも「無差別平等の智慧のはたらきを、自分の分別でさえぎっていることを親鸞聖人は疑心といわれるのです。差別をしているのは誰かということをよくよく考えることが大切だと思います」と書き、如来は無差別平等であり差別はされない、分別心で差別しているのは衆生の方だと示しているのですから、特に私の言っていることと相違するようには思えません。如来は無分別ゆえに差別しないのです。※

なお、何度も「本願寺派碩学」という表現を使いました。こうしたやり方は権威主義的で好きではないのですが、「本願寺派の教義安心」を論じる場であることを強調するためにあえて使っています。ご容赦ください。

※ 付け加えると、「異安心」と差別するのも常に人間がやることであり、そもそも「異安心」という言葉自体が浄土真宗の経典にも聖教にも存在しないのですが、それを言ってしまうとこの記事そのものが成り立ちませんから、「本願寺派宗学と異なる教義解釈」と仮に定義することで議論をすすめています。

岡林さんの論への疑問

さて岡林さんの論でいくつか疑問に思うことがあります。一つは、

聖人のご著書では信を得れば疑心はなくなるとされるところの方が圧倒的に多い。(岡林氏論考)

とあるところです。真宗教学に詳しい方ならすぐこの誤謬に気づかれると思いますが、親鸞聖人の書かれたものに「信を<得れば>疑心はなくなる」と読めるところは、実はあまりないのです※1。なぜなら、

「信心」は、如来の御ちかいをききて、うたがうこころのなきなり。(一念多念文意)

とあるように、信心とは無疑そのものだからです。つまり「信心」を頂いて「無疑」となるのではなく、この2つは同じものです。信心は「至徳の尊号を其の体とせる」(信文類)とあるように名号そのものであり、それが「疑蓋、雑わること無し」(同)なのです。

これは私は法話や講義のたびに幾度も説明していることで、稲城和上が

他力の信心は自らのはたらく間隙は全くあり得ない。名号をそのものを信の体とするからである。それ故、間違いのないのは自らの理解しているものではなく、名号法そのものである。稲城選恵『最近における真宗安心の諸問題』)

というそのことです。

この「信心」の体と相を混同する誤解は岡林さんの文章の端々に見られますが、例えばこれもそうです。

例えば、小さいころにはぐれた母子がいるとしましょう。その母子がふたたび出会った時に、母が私の知らない過去のことまで私のことを知っていてくださって、「私がお前のお母さんですよ、こっちへきなさい」と言われて、疑う人がいるでしょうか。

真実の信心とは瓜生師がいうような如来や浄土を私の側から信じていく心ではなく、如来の仰せにより私が虚仮であることと、本願念仏が真実であることが同時に知れることなのです。※2(岡林氏論考)

と説明していますが、これは「私の知らない過去のことまで知ってくださっているから、私のお母さんだろう」と分別心で状況判断しているだけですから、「私の側から信じていく」姿そのものであり、浄土真宗で言う信心とは異なるものと言えますし、あえて言えば自力心でしょう。当然親鸞聖人はこのような説明は一切されていません。

私はこのような信心の姿を、「これは自分が作り上げた信心ではなく、本願力回向の信心である」と「自分で信じている」だけではないですかと言っているのです。

こうした主張が岡林さんには「救われた、信心をえた、という人を貶める」と聞こえてしまっているのかも知れません。だとしたら、誤解させた自分の言い方にも問題があったということですから、お詫びいたします。

※1 親鸞聖人が「うたがい」を語るときの基本姿勢は「なくなる」ではなく、「うたがいなき」「うたがいなし」です。これは他力信心の性質が「疑いなくなる」ではなく、「疑いないものを賜る」ところにあるからだと考えられます。

※2 ちなみにこの譬喩の部分を抜粋して、本願寺派宗学を熱心にやっている何人かの友人に見せましたが、すべて否定的な反応が返ってきました。つまり本願寺派の教義安心においても、広く認められている解釈とは言い難いことを付記しておきます。

疑城胎宮の世界

まだまだ書きたいことはありますが、きりがないのでこのくらいにしておいて、少し気になったことを書きます。

岡林さん本人の問題提起は、作為的な引用が目立つとはいえその書き方は丁寧なものでしたが、この論考を読んだ人たちから、私はSNSで随分ひどいことを言われていたようです。もっとも、私はブロックされていて読めなかったので、親切な人に教えてもらったわけですが。※

その時、私は稲城和上のこの文章を思い出しました。

二十顧の果の世界を疑城胎宮といわれる。これは因の失を果によってあらわされたものである。疑は既述の如く自力心であり、自力の信心である。絶対に間違いないと思いこむ信心であるから自らのものの他は全く聞く耳をもたない。恰も籠城するが如く、自らに反する外敵はすべてはねつける。それ故、妊娠中の胎児のように外界からは全く閉鎖され、外を見る眼は塞される。ただ自分だけが生きがいを感じ、最高の喜びを見い出す。給も酔漠の如くである。また麻薬にとりつかれているもののようである。全くマルキストのいう阿片や毒酒の如きものである。(稲城選恵『御文章概要 蓮如教学の中心問題』)

私はずっと、どうして「ご信心をいただき、お念仏をよろこぶ人」の一部に(ほんのごく一部ですが)、自分の信心をアピールしつつ、事あるごとに他を攻撃する人が現れてくるのかを、不思議に思っていました。それは親鸞聖人が化身土巻に引用される「決定して自心を建立して」と言われている問題がそれだと思います。

つまり自分の中にあるのは本願力回向の信心だと「信じて」いるだけで、実のところそれは自心に建立された自力の信であるがゆえに、崩れることを恐れ、異なるものを排除し、狭い世界の中に閉じ込められてゆく。稲城和上はこうした有り様を何度も問題提起しています。

実はこれは私と無関係な問題ではなく、私もそうした傾向を持つ人間のひとりですし、この記事自体がそうだとも言えるかもしれません。ただ、これ読んだ人でもし私と同じように「自分のことかも」と思ってくださった方があったら、この文章を書いた甲斐があったかなと思います。

※ 岡林さんにブロックされていたのはではありません。念の為。

最後に

親鸞会を脱会したあとの私の師は二人いますが、実はどちらも本願寺派の方です。そのひとり、元本願寺派教学研究所所長の大峯顕師は、よく曽我量深(大谷派碩学)の話をしてくださいました。曽我の解釈は本願寺派から見れば異安心的なところもあると思いますし、もとより大谷派からも一時は異安心として追放された方です。しかし大峯師は曽我量深の言葉をとても大切にしていました。

私は過去に本願寺派の学者が、大谷派の現役の教学者を「異安心」と批判するのを聞いたことがあります。その際あまりに前後の文脈を無視して、その教学者の主張が「異安心的に」切り取られていると感じ、違和感を持ったものです。

それよりその学者は、自分が長年聞いてきた教義解釈の枠組みでその教学者の言葉を理解しようとするから、「異安心」としか思えないのであって、私のように両派で教学を学び聞法してきた人間にとっては、視点が違うだけで言わんとすることは同じに思えました。誤解なきように付け加えると、その学者は当時も今も私の尊敬する方です。ただ自分の枠組みを超えて相手を理解しようという姿勢が、少しかけていたように思えたのです。

何かを批判するときには、その批判の根底に、異なる視点を尊重し、違いの中に変わらない本質を見ようとする方が、より建設的な批判となり、豊かな聞法につながると私は思います。大峯師はそのような人だったし、私もそう有りたいものです(しかしなかなかそうなれなくて、悩んでいるのですが)。

岡林さんは私を「安心、真宗理解においては本願寺派の正統とはかなりかけ離れた理解である」と言われていますが、もとより私は本願寺派の正統でありたいなどとは思いませんし、私を法話に呼んでくれる方々の誰ひとりとして、私を「正統」と認識している人はいないでしょう。もとより真実信心とは、一宗派の「正統」などという枠に収まるような、狭いものではないはずです。

最後に、私は岡林さんにこの記事に対する応答は望みませんし、仮に返答をされても、これ以上のやり取りをするつもりは一切ありません。批判は大切ですし、そこから新たな視点が生まれることもありますが、岡林さんの指摘はあまりに断章取義であり、相手の主張を理解しようという態度が感じられないからです。そのような方との議論は、不毛です。

岡林さんにおかれましては、ご自身が正しいと思う教義解釈を、ご自身の場において、思う存分にされてください。私も是非お聞かせいただきたいと思いますし、ご案内頂ければお聴聞に参りますよ。

統一教会との思い出

私は長年カルト問題に携わっているけど、統一教会(世界平和統一家庭連合)との関わりはそんなになかった。ただ一度、彼らといろいろと話をしたことはある。

2011年のことだから、もう11年前のことになる。私は千葉大学公開講座でかると問題について講義をした。北海道大学の櫻井義秀先生と合同の講義で、前半は私、後半は櫻井先生だった。

私が話をしているときに、一番前の方で携帯をチラチラ見ながら話を聞いている学生がいた。大人しそうな女性だったのだが、講義が終わるとこの学生が怒涛の如く質問をしてきた。詳細は忘れてしまったが、私が講義中に統一教会に触れたことに抗議し、私を批判する内容だったと思う。

ただ、不思議なことに彼女は、質問するときにいちいち携帯をチラ見するのだ。質問の内容もなんだか変で、誰かに言わされている感がある。そこで、自分の話が終わり、櫻井先生の話になったときに、教室をグルっと回って怪しい人物がいないか確認してみた。

すると、いた。一番うしろの席で、中年男性がエアエッジのついたパソコンで、講義の内容のツッコミどころを探して、件の学生の携帯に質問内容を指示して質問させているのだった。早速隣りに座って「何してるんすか?」と問い詰めたら簡単に白状した。彼は統一教会の職員で、学生は信者だった。

「聞きたいことがあるなら、あなたが直接手を上げて質問したらいいじゃん。なんでこんなことするの?」というと、いろいろと言い訳を言ったような気がするけど覚えていない。真面目そうな人だった。

その後、大阪大学原理研究会から連絡があった。千葉大学で行った講演について話し合いたいから寺に行ってもいいか、という。なんで千葉大で話した内容が阪大に伝わっているのかと思ったが、断る理由もないので承諾した。数日してワゴン車に乗って学生が6人寺に来た。

うち1人が大学で勧誘された信者で、5人は祝福二世だという。リーダーは4回生の女性で就職も決まっているという。ずいぶんしっかりした話しぶりで、統一教会はカルトではなく危険な宗教ではないと説明する。私はその内容に一つ一つ反論しながら彼らと対話したが、どちらも感情的になることはなく、宗教以外の内容、学生生活や趣味などの話になればそれなりに楽しく談笑し、2時間ほど対話して彼らは帰った。

後日阪大の先生にそのことを報告した。その6人の信者については大学側でも把握していて、授業にはきちんと出席しているし成績も問題ないという。

私は彼らの背景にどんな宗教被害があるのか、今も考える。自分が見たものは問題なかったと言っているのではない。宗教に入る人にはそれぞれの人生があり、その中には普通の生活や笑いや喜びや悲しみもある。山下容疑者に関連する報道で出てくる二世被害だけが統一教会の姿ではないし、あの学生たちの礼儀正しい姿だけが統一教会の姿でもない。

あらゆる偏見から少しずつ離れ、対話し、そこから生じる社会的問題性を徐々に減らしていくことはできるのだろうか。統一教会に関しては、もうそんな段階の教団ではないことは重々承知しているのだが。