ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

反ワクチンな人たちとの対話と、あるアレフ幹部の思い出

いま、2回めのファイザーワクチンを打って、副作用でフラフラになりながらこれを書いている。耐えきれないほどではないけど、それなりにきつい。

そんなときに、寺に電話がかかってきた。これは電凸と言ってもいいのかな。以前に私がインタビューされて応じて、動画として配信されているインタビューがあって、それを見て話したいというのだ。いわゆる「反ワクチン」の方だった。

動画は以下のものだ。それにしても、コメントが酷い。

www.youtube.com

これについては、以前にこんな記事も書いた。こちらのほうが本音に近い。

nekojushoku.hatenablog.com

動画自体は再生回数が多いわけではなく、影響力もそんなにないと思うのだが、「カルト化」なんて書いたから癇に障ったのだろうか。「反ワクチンをカルトと言いましたね!」みたいな電話がかかってくるのだが、動画をよく見ればわかるがそんなことはいってないのである。他にも攻撃的なもの、私をせせら笑うもの、憐れむもの、なんとかワクチンの危険性をわかってほしいと説得するもの。いろいろな意見が寄せられる。

もっとも、私は上の動画や文章を見ていただければわかると思うが、一方的に自分の正義を押し付けることなく、相手の立場を理解して対話する道を主張してきた。ただこの手の「反ワクチン」(あまりこういうレッテルを貼るのは好まないが、これ以外に表現のしようがない)の人たちからのメールやSNSのコンタクトや電凸はそれなりにあり、今日はあまりに一方的な電話で、皮肉にもそのワクチンの副作用で体調が悪く、うんざりして相手の話を遮って電話を切った。悪かったと思っている。

でも今日のはまだマシなのであって、少し前にはワクチンを推奨する人殺し住職と言われたりもした。いや私はワクチンを打つのが正義で、反ワクチンが間違っていると言っているわけではない。互いに自分の正義を譲らず対峙するのではなく、自分の正しさを疑って対話をすることが大事だと言っている。しかしこの徒労感。私も、自分の正しさを疑えてないのだろう。全く、対話が大事と言っている本人がこれだ。

思えばこういう歩みをずっとしてきた。私はカルトと言われる(この表現も好きではないが、これ以外に言いようがないのだ)宗教団体に入った人との対話、その家族のサポートをずっとしてきた。その人の信仰の誤りに目覚めさせるよりも、自分が間違いないと思っている人生観を疑い、お互いに歩み寄ろうと言い続けてきた。長い地道な対話でそれが奏功した事もあった。でもどうにもならないことはそれ以上にあった。

法華系の仏教団体、韓国系のキリスト教団体、親鸞会電凸もあったし、集団で寺にきて抗議したところもあった。変なFAX、メール、多すぎてほとんどは思い出せない。一方的に人格を切り刻むような攻撃。私はこういうのを相手にしなきゃならない星の下に生まれたのだろうか。

意外に思うかもしれないが、もっとも礼儀正しかったのは霊感商法で知られる統一教会(現世界平和統一家庭連合)の若者たちだった。彼らはアポを取って寺に来て、一人ひとりきちんと本名と所属を名乗って理路整然と私に抗議した。話し合うこともできたし、帰りにお菓子を沢山もたせたら喜んでいた。もっとも、だからといって彼らの教団がやってきたことを養護する気は全く無いのだけど。

どれだけ理解しよう、対話しようと思っても、その緒すら全くつかめず、「完全に正しい(と思っている)」自分たちの主張を繰り返すだけで、1mmの歩み寄りも共感もできないことがある。どうしたらいいのか、ずっとその事を考えてきた。いやまあ、私自身が親鸞会という教団にいたときは、私がそう周囲に思われていたはずだ。その時の気持ちはどうだったか。思い出すことはできるが、だからといってどうしたらいいのかはわからない。

以前にアレフオウム真理教)のある有名な幹部が、死刑廃止運動の集会に来ていたのを見たことがある。その集会には、教祖麻原やその弟子たちの死刑にも反対してきた弁護士たちが来ていた。弁護士たちは彼らの罪は罪として見て、それでも死刑はやめなければならないと主張してきたのだ。

そのアレフの幹部は集会が終わると弁護士たちのところへ行き、深々と頭を下げてお世話になりましたと礼を言っていた。弁護士の一人は涙声でその幹部に語りかけていた。

私は絶対にわかり合えない、どうにもならないと思ったとき、あのアレフの幹部のことを思い出す。粗末な服に運動靴をはいて、よたよたと歩き、一人ひとりに丁寧にお辞儀をしてまわっていた彼のことを。それがたとえアレフがオウム時代にしたことを十分に反省できず、だからこそ死刑を受け入れられない身勝手な思いから出たものであったとしても、あの幹部の姿が目に焼き付いて離れないのだ。

人は自分の生き方を自由に選べるように思っているが、実はそうでもない。カルトに入る人、反ワクチンという生き方をしなければならない人、それはそれぞれに深い業があるのだと思う。私もそうだ。私自身も自分の正義を握りしめる凡人だからこそ、対話の可能性を諦めずに歩んでいきたいのだ。いや偉そうなことを言っても、今日は電話を切ってしまったのだが。