ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

僧侶の正しさとナイーヴさ

以前にプロテスタントの牧師が、「聖⭐︎お兄さん」という漫画に描かれるイエス像に大変な不快感を表していたのを見たことがある。確か、Twitterだった。

って思って検索したら案外簡単に見つかってしまった。

私は、この漫画を少しだけ読んだことがあり、案外正確な仏陀の描写に感心した記憶があるのだが、許せない人もいることは容易に想像できた。宗教ってのはそういうものなのだ。自分の人生の最も大事な部分を宗教に担わせている人がこの世界にはたくさんおり、私達はそれを茶化す「表現の自由」を手にしてはいるが、同時にそれをする時には少なくない人を傷つけ、また批判を受けることも覚悟しなければならないだろう。

この問題の難しいところは、たとえ宗教者であってもその感覚がそれぞれ大きく異なることで、例えば以前になにかのパフォーマンスイベントで僧衣が使われた時に、私の知り合いは大変な怒りを表していたが、私は僧侶であるのに衣にはほとんどこだわりがなく、正直なんとも思わなかった。でも、彼を狭量だとは思わない。

ここからが本題なのだが、私達僧侶の世界では、コロナ禍でYoutubeやクラブハウスなどで発信する人が随分増えた。その一つを見た私の友人が、一種のゲームのように法話を扱い、内輪でふざけた感じで発信がなされていることについて、不快感と悲しみを表明した。

それについて、関係する僧侶の人たちから随分な反発が出てきたそうである。それらは直接に友人に寄せられたものもあれば、いわゆる「エアリプ」の形でなされたものもある。

実のところ、私も法話を動画配信しているが、既存の教義理解への批判を含むものもあるので、それらへの反発はかなりある。悲しいと言ってきた人もいた。正直それが続くと凹む。もう配信なんかやりたくなくなる。でも、人に悲しみを与えているとの事実は受け止めている。いや受け止められているかどうかは自信はないが、少なくともそれを覚悟してやってはいる。直接寄せられた批判にはかならず答えているし、そうでないものもなるべく読むようにしている。

宗教とは、そういうものだ。自分の内面の深いところに触れる営みであるがゆえに、その解釈、思い、行動、それらがすべて、人を救うことにもなるし、傷つけて悲しませることにもなる。自覚しようとしまいと、どこかで私達はその重荷を背負うことになる。

その恐ろしさを重たい覚悟として背負いながら、どこかで折り合いをつけて、反省したり怒ったり、自信喪失と驕慢の間を行ったり来たりしながら、私はこの道をおどおどと歩んできた。

別に僧侶がどんな法話をしても、どんなおふざけをしても、構わないと思う。嫌なら聞かなきゃいいだけなのだし。

でも、自分たちのやっていることの正しさを疑えず、悲しいという言葉もはねつけ、指摘した人を批判し、身内で慰め合うようなことをしてしまうのは、いくらなんでもナイーヴすぎるではないか。真面目に一生懸命やっているからこそそうなるのかも知れないが、人間は「真面目に一生懸命」というところに最も迷うのだから。

「素晴らしい教えを一生懸命伝えてみんなを救うんだ」それは高い志であるがゆえに、仲間を集め共感という砦を作ってその志を守り抜こうとする。でも、本当はそんなもの、一度崩されたほうがいい。私はカルトの問題を長く取り組んでいるから、それがよくわかるのだ。その砦が人を救うだけでなく、分断と悲しみも与えていることに。

それにしても、こういうことを書くと思うのだけど、私自身も自分の正しさを誰かに裏付けてほしくて必死なのだな。こうやって書いている言葉が、そのまますべて自分に突き刺さってくる。