ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

在家出身者は差別されるか

私は新宗教で講師をした後に、一般企業で働いて、僧侶になって入寺した、ちょっと異色な住職である。いわゆる「在家出身」と言うのだが、もともと私がいる浄土真宗は在家仏教なので僧侶は全員「在家出身」のはずである。しかし現実的には寺生まれでない僧侶にだけ「在家出身」とのレッテルがつく。まあこの辺は変だけどしょうがない部分なんだろう。

で、在家出身に対する差別とかありましたかと聞かれると、思い出してもあんまりないなぁとしか言いようがない。お寺で生活したことがなかったので慣れるのに時間はかかったし、先代の住職と一緒に生活して学ぶこともできなかったので、何も知らなくていろいろ恥をかいたことは事実だけど、それは差別とは言うまい。

無論、差別的に「彼は在家出身だから〇〇なんだ」と言われることもあったかも知れないが、そんなことはだいたい陰口で言われているだろうし、直接に聞くことはなかった。もちろん、直接に浴びせられたという人もいて、陰口だろうと直接だろうと本来は絶対にあってはならない事だと思う。

まれに自分は伝統のある寺院の血筋なんだとか、なんかの血統を受け継いでいるんだ、的なことを鼻にかける人も無いわけではないが、そもそも仏教ではその手の価値観を全否定しているし、多分あまりいい友だちにはなれそうにないので、最初から近づかなければいいだけである。

寺社会って入ってみると、ここが恐ろしく均質な集団だとわかる。同じ宗教的信念のもとで育てられて、地域社会で寺の人として見られ、宗門の運営する学校や大学に行く人も多い。こんなことを数百年続けてきたからだろうか。似たような考え方をする人ばっかりであることに驚く。

なので、この組織の生存戦略とでも言ったらいいのか。寺社会の外から入ってきた人にちゃんと役割を与えて、異質なものを積極的に受け入れる傾向は実はかなり持っている。その一方でそれが行き過ぎたとき、異質なものを恐れて排除しようとする力も生じる。私が所属している教団は真宗大谷派だけど、常にこの二つの力が同時にはたらいていることを、身の上に感じつつ生きてきた。引っ張られもしたし、排除されたりもした。

ここの人たちは数百年の間、家族親戚を二つくらいたどったら、ほとんどみんなカバーされてしまうのではないかというくらい密な血縁関係を維持して、宗教という砦の中で生を重ねてきた。

嫌だなぁと思うこともあるし、しんどさも感じているが、数世紀に渡って七転八倒して教えの灯を守ってきた人たちが、流れ者のようにこの世界に現れた私を、なんとか受け入れてくれている(そうじゃなかったらすみません)。

ここはだいぶ淀んではいるし、全く居心地も良くないのだが、この教えを受け継ぐ人たちの流れの中にいさせてもらえることは、悪くないことだと思ってる。

(ちなみに、新宗教の出身ということでならば、差別的な扱いを受けたり、あるいはSNSで心無い言葉を浴びせられることは結構、いやかなりありました。でも一番イヤだったのは、私の過去を知ってそれを心から哀れんでくれる人でした。人は親切心から人を傷つけるのだと、心底知らされた経験です)