ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

法話を批判するということ

前回、「即興法話」についての意見(いや、批判と言ったほうがいいかも知れない)を書いたら、意外なことに随分反響をもらってしまった。

なぜ意外かというと、このブログは何しろ一日数アクセスくらいしかないので、多くの人に広めたくはないけど、自分がどうしても書きたいことを書くために使っていたから。かといって匿名は卑怯な感じがするので実名にしている。随分と歪んだ動機のブログだと思う。

そして案の定、よくぞ言ってくれたとの反響もあれば、どうしてそんな事を言うんだ、頑張ってるんだから暖かく見守ってあげたらいいじゃないか、といった反響も頂いた。

中でも、私が自分の思っている「正しい法話」以外は許さない人間で、そうじゃない法話をさばいているのではないかとの声もあった。以前にシネマ法話(知りたい人は適当に検索してほしい)を批判したこともあり、自分が正しいと思っている法話以外を厳しく批判する人間、との印象が出来上がってしまっているのだという。

これは、本当にそのとおりなので、反省するしか無い。そして私自身が自分の法話を動画サイトなどで多くの人に晒している故に、同様の批判をずっと受けてきた。その批判から貴重な学びを得ることもあるが、「自分が思っている法話以外は許せない人」からの批判にはホトホトしんどい思いをしてきた。自分の嫌がることを人にしているわけである。自己嫌悪だ。

それが分かっているから、人が来ないこのブログでひっそり書いたのだけど、少なくない人がいま危惧しているところに、その内容が触れたのか、不思議に読まれてしまったのだ。

その危惧とは、お寺を開くとか、初心の人にわかりやすい話をという、おそらく誰にも反対できない強い理由によって、宗教の最もコアな部分が少しずつ溶かされているのではないかとの、懸念ではないかと思う。

おふざけ半分みたいなお坊さんのコンテンツが溢れるようになって、それに興味を持ってこの世界に入ってきてくれる人はたしかにいる。でも、やはり思ってしまうのだ。それはかえって、本当に求めている人を遠ざけてしまうのではないかと。

そんなのは心配するほどのことじゃないし、嫌なら見ないで自分の道を歩めばそれでいいのだろう。それぞれの人にそれぞれの役割がある。そう言われてみれば身も蓋もない話である。

ただ、浄土真宗という教えが、安易な安心と癒やしを仲間内で共感していくような、そんな存在に次第になりつつあることへの危惧。そうは言っても、結局自分を限りなく正しくしていて、自分に合わないものを間違ったことにして、それを正したいのだとの驕慢に、がんじがらめになっているのではないかとの恐れ。

なんとも、どうしていいのかわからない。言いたいことはあっても、こんな世界の片隅でしか書けない、どっちつかずの思いを抱えた悲しみを、どうしたらいいのだろうか。