ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

人は簡単にウソを信じる

今日、緊急事態宣言下の京都に行く用事があって、車で移動していたら、かつて勤めていた会社の前に「テナント募集中」という看板が立っていた。

そういえば、今年の正月に社長からの年賀状に「廃業しました」と書いてあったので、聞いてみたらコロナで仕事が激減して、将来の見通しも立たないので廃業することにしたという。2年ちょっとお世話になった会社で、自分が唯一「円満退社」できたところだった。他に勤めたところは首になったか潰れたか社長と喧嘩して退社している。つくづく自分は会社員は向いてないのだと思う。

その会社は私が入ったときは一人の役員が社内を支配していた。恐怖支配と言ってもいい。有名なタレントや裏世界と繋がりがあると言って、それらの人から来たというメールを人に見せ、逆らう人は反社との付き合いをちらつかせて容赦なく脅した。冷静に考えれば、そんな有名人たちとこの中小企業の役員氏となんでつながりがあるのかと、実に荒唐無稽な話なのだけど、それがやたら話のディテールが細かいので、聞いた人は信じてしまうのだ。

私はカルトの問題をやっていたのですぐに嘘っぱちだと気づいた。その役員氏の紹介で「長澤まさみとメル友になった」という社員が居たので、長澤まさみから来たというメールのヘッダを解析して他のメールとも照合したら、まさにその役員氏の自宅から送られたものだった。役員氏は自宅からシコシコと長澤まさみのふりをしてメールを送っていたのだ。やれやれ。

役員氏は会社から多数の人材を引っこ抜いて独立するつもりだったのだが、私はそのあたりの情報をうまく流して役員氏からの離反を促し、被害を最小限に抑えることが出来た。

まあでも私が会社に貢献できたのはそのくらいで、あとは社内のツールや業務システムを内製したり改良したり。たまに外から仕事をとってきたりもしたけど、ほとんど業績に貢献しないで給料だけもらっていた。なのでやめると言ったときは社長もこころなしか嬉しそうだった。結局私は、いまだかつて惜しまれて会社をやめたことがないのだ。

f:id:nekojushoku:20210428001747j:plain

それにしても、カルトの問題をやっていてもそう思うのだけど、こんなこと誰が信じるんだよ、という話を確信してしまうことなんで、人間いくらでもある。第一、日々のニュースだって教科書に書いてあることだって、あるいは近所の噂話だって、明確な根拠があり、更に背景が理解できることなんてそうありっこない。大抵の場合は、なんだかわからないけど、たまたま縁があってそうだと思っているだけじゃないか。

人は、大した裏付けもないことを日常的に信じて生きているのだ。だからワクチンがマイクロソフトの陰謀だと真面目に信じたり、不正選挙で落選したというトランプの復活を待つ人が居ても別に不思議じゃない。様々な情報を重層的に取り込んで、複雑なものを複雑なままに認知するのは、そもそも私達にとっては荷が重すぎる行為なのだろう。

現代社会は、人間の理性を信頼しすぎたのかも知れない。私達は本当は、正邪も善悪も、本当のところは何もわからないのだ。それを理性によってきれいに分別できると思っていることが、実に深い勘違いなのだ。しかしだからといって、私達は理性を信じて生きることもやめられない。

私は今日も、真っ暗な理性の殻の中を、おどおどと自信なく生きている。

死について考える―遠藤周作

遠藤周作の「死について考える」を読んだ。遠藤周作は好きだったので随分いろいろと著作を読んだのだけど、こんな本があるとは知らなかった。ふらりと立ち寄った大垣市立図書館で、この本を見つけた。

死について考える (光文社文庫) | 遠藤 周作 |本 | 通販 | Amazon

この本が書かれたのは1987年、遠藤が64歳のときになる。今の感覚で考えるとまだ十分に若い歳のように思うのだけど、病気がちだった遠藤にとっては違ったのだろう。

内容は他で遠藤が話したり書いたりしていることも多いのだけど、信仰と死の問題についてここまで赤裸々にまとめた本をみたことがない。

椎名麟三さんはプロテスタントですけど、洗礼を受けた時に、私に、

「遠藤さん、ぼくは洗礼を受けたから、これでじたばたして、虚空を摑んで、死にたくない、死にたくないと叫んで死ねるようになったよ」

と言ったんです。私には椎名さんの言うことはとてもよくわかる。自分の醜いことをどんなにさらけ出しても、神さまにはたいしたことではないということです。

うまく年をとって従容として死んで行っても、じたばたして死んで行ってもいいと今の私は思うんです。理性ではみにくい死にざまはしまいとして、それを実行しようとしても、意識下では人間はやはり死にたくないからです。神はそんな我々の心の底をみんなご存じのはずです。だから神の眼からみると同じなんです。じたばたして死ぬことを肯定してくれるものが宗教にはあると思うからです。

国木田独歩が植村牧師の前で、「祈れません。私には、祈ることが出来ません」と泣いたことについて、

(国木田)独歩が祈れませんと答えたのも、カトリックではよくわかります。祈れません、と言っても、それが既に祈りになっているのだから一向に構わぬ、と私は思うのです。

「苦しくて祈れません」
「不安で祈れません」
「もう絶望して祈れません」
「神様がいないような気がしてきましたので祈れません」
「こんな目にあわせる神様、とても祈れません」

というような祈れませんであっても、それは神との対話ですから既に祈りです。たとえ祈れなくても神がそれを大きく包んでくれるというような感じがします。椎名麟三さんに聞いたわけではないけど、椎名さんはたとえ神を呪うようなことを口にしても、神にすべてを委ねるという信仰を持たれたのだと思います。

独歩が、祈れませぬ、と言って哭泣したのが私にはわかるような気がします。そう言ってもそれを救ってやるのが本当の宗教だと思います。

祈れませんという言葉が神との対話であり、祈りだというのだ。この言葉は浄土真宗を長年求めている自分の心を打つ。浄土真宗の信も、信じられない、念仏も出来ない、浄土を求めてもない私の事実の上に開かれるものだから。疑って救いをはねつけるままが如来との対話なのだろう。

 鴎外が死の間際になって、「助けてくれ」ってわめき散らしたりすることは、鷗外の文学からは考えられまん。しかし、日本の死の美学に沿った立派な死に方ができると言える自信のない私のようなものからは、下司のかんぐりかもしれませんが、従容として死についた人の心の中では、煩悶苦悶がなかったとは言えないと思います。それを隠して従容として死んだ人が多いのじゃないでしょうか。

しかし、この鷗外のように、日本の死の美学によって賞賛されるような死に方のできない人間、迷いの深い人間、悪いことをしている人間、従容として死ぬことを立派だと思っているけれどもそれができなくて、自分の煩悩や執着がむき出しになる可能性が強いと思っている人間、そういう人たちのほうこそ仏教やキリスト教を勉強したりすることが多いのだと思うのです。しかし宗教を勉強し、宗教を信じ、理屈の上ではある程度の確信が持てても、いざ自分が死に直面したりすると、何も勉強しなかった人よりも理屈の上ではわかっていたことが音を立てて崩れて行くということがあると思うのです。今まで二十年間、あるいは三十年間勉強して来たことが何だったのかと、周章狼狽してしまうことがあると思うのです。今まで絶対に別れるなどというはずがないと思っていた女房から、

「長いことお世話になりました」

と離婚を宣告されて仰天する男と同じように、死の恐怖や死の苦痛が来た時、キリスト教の信者や篤信の仏教徒のほうがかえって混乱したり、動揺したりすることがあるかもしれません。亀井勝一郎さんが、

「信仰のことが念頭から離れられない人間ほど、死の恐怖の前に狼狽するかもしれない」

と書いているのも、私にもよく納得がいきます。死を前にして周章狼狽するのを、それでいいのだと言えるようになるのが信仰の第二段階だと思います。

これもわかる。何十年仏教を学んでいても、おそらく死ぬときには何の役にも立たない。迷いが深いからこそ求めるのに、求めれば求めるほど、結局は狼狽して死ぬしか無い自分が見えるばかりになる。そう思ってはいても、どこか仏教で生や死の受容を得られるように思って、いまも追いすがっているのだ。

出家とその弟子』を書いた倉田百三浄土真宗を信じていたはずですが、死の床でどうしても浄土が思い浮かばぬと嘆いたそうです。彼はそういう人だったからこそ、その書いたものが人に訴える力があったのじゃないでしょうか。浄土が思い描けない人間だからこそ、自分を説得し、浄土とはこうだと一所懸命に書いた。だからそれが 読むものへの説得力になったんじゃないでしょうか。私自身も小説を書いていて、そう思います。私は自分の心を説得するために一所懸命になって書いていますから。

キリスト教の信者になったものは、信仰の確信を持っているという誤解があります。「信仰というものは、九十九パーセントの疑いと、一パーセントの希望だ」と言ったのはフランスの有名なキリスト教作家ベルナノスですが、私は本当にそうだと思うんです。疑いがあるから信仰なんです。浄土が思い描けないということが信仰がないっていうことじゃないんです。宗教に何の関心もない普通の人だったら、「浄土を思い描けないがどうしよう」などと言わないでしょう。信仰があるからそんなことを口にするのです。倉田百三が浄土が思い描けないと言ったことは、倉田百三にとって恥でもなんでもない、と私は思います。

疑いがあるから信仰。信じたいという思いがそのまま疑いなのだが、かと言って信じたいという思いも疑いも、どちらも捨てることが出来ない。

私は大抵の人間は救われるという考えでおりましたけれど、アウシュビッツにおける彼らの行為の跡を実際に見て、顔をそむけたくなるこのような残虐を犯した人間は果たして救われるのか、と日本に帰るとすぐ、ある神父に聞きました。その神父は、彼らの人生全体の判定を誰ができるか、その男が息を引きとる瞬間に、自分は悪かっ たと心の底から思った時に救われないと誰が言えるか、と答えました。あんなに残酷なことをした人間をも救うほどに、神の愛は広いのか、と私が言ったら、その神父は、 そうだと言いました。私はその時ガンと頭をうたれた気になりました。

それでは殺された人たちは浮かばれんじゃないか、と私は反駁したのです。

殺された人たちの倫理や論理を、私たちが自分たちの倫理や論理で判定するから浮かれぬと考えるのであって、殺された当人たちの気持ちや論理をどうしてわれわれが言えるのだ、と神父は言うのです。

その時、私には殺された人たちの身になって、殺した人間も神に救われるというのはあんまりだ、と考える一方、そのくせ神父の言うように、殺したほうの人間が救われるのを認める気持ちもどこかに起きました。

幸不幸・善悪の問題。私達は、わからないのだ。わからないものだから、それを「大いなるもの」の無限の受容に委ねるしかない。

こはちょうど先日、歎異抄13条の法話でお話したところです。自分の話で恐縮ですが、貼っておきます。

youtu.be

本当に人生の外には沈黙だけしかないのか、本当に永遠の沈黙だけだろうか。
さきほどものべたように「完黙」にはよく「氷のような」とか「永遠の」という俗っぽい形容詞がつきます。

しかし沈黙にもいろいろあります。まったく何もないナッシングの沈黙、空虚そのものの沈黙――それとは別に、フランスの有名な作家アンドレ・マルロオがいみじくもその大著の表題につけた『沈黙の声』の沈黙があります。それは沈黙というよりは「静けさ」ともいうべきものかもしれません。その沈黙は決して氷のように冷ややかなものではなく、呼びかける声がするのですが、我々人間にはまだそれが聴こえない。その言葉を徴以外には解読することができない、そんな沈黙があり、静けさであります。

だから、私たちは必ずしも死の沈黙を絶対に無の沈黙・消滅の沈黙と重ねあわせることはできない気がするのです。茶室に正座している人は、茶室の静寂を内容空虚な静かさとは思いません。その空間のなかには、宇宙の生命にふれる何かが含まれています。神堂の静かさや無をたんなる虚無と思われる方はいないでしょう。死の直後、あの静かさ、一人の人間が息を引きとった瞬間の静寂。その静寂の向こうに、次の世界が広がっている、これは私自身の感覚ですから、ほかにどう説明のしようもありません。

私の先生である故大峯顯師なら、これを念仏を言うのかも知れないと思った。ただ自分にはわからない。次の世界などあると言えるのだろうか。ずっと浄土の教えを聞いているのに、まだそこがわからないでいる。

私は老年とは若い時や中年の時とはちがって、何かにじっと耳傾ける時だと思っているのです。そ の何かとはやがて旅だって行く次なる世界からかすかに聞こえてくる音なのです。

私も六十五歳になったら、その音をよりよく聞くために仕事を整理しようと思っています。六十五歳になったらと考えるのは、私は少なくとも七十五歳くらいまでは生きているだろうと漠然と信じているからにちがいありません。明日にも死が訪れるかもしれないと考えたら、六十五歳になったらなどと考えないはずです。

死に支度いたせいたせと桜かな

この句をよんだ一茶もまた同じ思いをしていて、自分に死に支度を促していたのでしょう。

 遠藤がこれを書いたのは64歳。その後いくつかの大病と手術を繰り返し、73歳で亡くなった。

「はてな」と私

「うりゅーさん、はてな、受けてみたら?」

取引先の会社の役員と雑談していたら、そんな話になった。

当時「はてな」はウェブ業界では話題のイケてる企業で、創業者の近藤淳也とか非常勤取締役の梅田望夫なんかはよくメディアを賑わしていた。そのはてなが、京都に移転する。それで人材を探しているのだとその役員は言う。

私は当時、京都の印刷会社でウェブ制作をしていた。その印刷会社は当時急成長しており、巨大な工場に最新のハイデルベルグオフセット印刷機が昼夜を問わず回り続け、莫大な利益を上げていた。私のいたウェブ制作部門は印刷に付随するウェブの仕事をもらって、コバンザメのようにひっそりと会社の片隅で生息していた。私達は出社のたびにそのハイデルベルグ印刷機に敬礼することが求められ、お前らは印刷の利益で食わせてもらっているのだと事あるごとに上司に言われていて、それが嫌だった。

それでも部署の人員は10人程度はいたのでそんな小さくもない。営業にひっついてシコシコと仕事を取り続け、それなりに有名な企業の案件を手掛けたりして、技術的にも最新のトレンドを地道に学んでいた。当時はAjaxがようやく普及し始めた頃で、私は社内で使うAjaxライブラリを作って、クライアントのサイトに仕込んだりしていたわけで、最先端とは言わないけど、それなりのことはしていたのだった。

「いやあ、私なんて採用されませんって」

「いや、うりゅーさんならたぶん大丈夫だよ。僕が紹介するから」

f:id:nekojushoku:20210419124706j:plain

はてなという会社をはじめて聞いたのは、京都リサーチパークの中の会社で働いていたときで、そこでは同じパーク内での会社として「はてな」と「まぐまぐ」が当時注目株の成長企業だったのだけど、いまいち何しているところかわかってなかった。その後はてなは東京に移転したのだが、このたび京都に戻ってくるというのだ。

でも、自分の技術ではとてもこんな会社無理だなぁと思った。自分にとってはてなはイケイケのテック企業で、Tシャツにジーンズの若者がスタバのコーヒーもって出社して、MacBookでコード打ってるイメージ。一方うちの会社は印刷屋にひっついたウェブ部門。管理職は背広にネクタイで下っ端はダサい制服。工場建屋の奥地にデスクがあり、昼にはみんなで社員食堂にいってメンチカツ定食を食べるのだ。いいな。かっこいいな、はてな

まあでも、会社に帰って何気なしにはてなを検索してみると、当時の主要サービスは「はてなアンテナ」と「はてなブックマーク」と「人力検索はてな」と「はてなダイアリー」。そうついていけない感じもしない。なんかサーバーを自作している記事も出てきて、思ったよりずっと牧歌的である。自分もまだ若かったし、京都の色んな会社と仕事もしてきた。行けば出来る仕事もあるのかなとぼんやり眺めていた。

でも安定した大きな会社でそれなりにお給料ももらっていて、ちいさい子どももいる。いまさらこんな小さい零細企業に入ったらどうなるんだろうか。いやその前に、やっぱり僕なんて採用されないよなぁ…大学中退だし、この人ら京大とか書いてるじゃん。

なんてうだうだ思っているうちに、決定的なものを見つけてしまった。会社のキャラが「しなもん」という犬なのだった。私は自我が芽生えてから今に至るまで完全無欠のネコ派で、犬はとても怖い。こんなのが会社に居たら仕事できなくなると思って、忘れることにした。

それからしばらくして、私は「安定した大きな会社」を突然クビになった。その後は転がり続ける人生でいまはなぜか住職。あのとき「紹介するよ」といわれて応じていたら、どうなっていたかな。

2008年くらいの話です。

さよなら、わが青春の顕真学院

今日は福井県あわら市公開講座があり、話にいってきました。あわら温泉街の旅館で法話会というちょっと粋な企画です。

4,50名くらいの方が来られていましたが、話の最中ですこしだけ自分が親鸞会にいた事、そして23年前、あわら市の北潟にある顕真学院で講師になるために1年半学んでいたことを話しましたら、終わった後に何人か「自分も親鸞会で聞いていました」と申し出る方がおられました。

一人は北潟で話を聞いていたと言われるので「学院の法話会に来られていたのですか?」と聞くと、北潟公民館で聞いていたとのこと。そうです、私が居たころも顕真学院の近くにある北潟公民館で、学院生は開発法座をしていたのでした。聞いていた時期も私が学院に居た頃と一致します。おそらくお会いしていたかもですねと頷き合いました。

また、「私からアニメを買った」と言われる方もおられました。そうです、学院生は月に二回、周辺地域を自転車で回って、「親鸞聖人のアニメ」を頒布していたのでした。ただ、20年以上前のことだし、当時の学院生は男性はみんな丸坊主でしたから、本当に私かも知れないし、違う人のことを勘違いしているかも知れません。

16年前に親鸞会をやめ、入寺して住職になって10年経ちますが、各地を法話で歩くと本当によく、「私も親鸞会で聞いていました」という方に出会います。あの教団はずっと自分たちが浄土真宗の主流になるのだという夢を描いていました。結局その夢は夢のままで終わりそうですが、驚くほど多くの人を真宗の世界に導き入れたように思います。もちろん、私も、その一人です。

あわら温泉での法話が終わった後、少し足を伸ばして北潟の顕真学院に行ってみました。この顕真学院は親鸞会が講師養成のために建てた学校で、実に厳しいところでした。私が居たのは1998~1999年の間で、あそこでの経験をとても一言で言い表すことはできませんが、とにかく、しんどい1年半でした。私と同じくらいの歳の若者が20人くらい入り、約半分は進路変更するか辞めていきました。

顕真学院への入学者は減り続け、2020年の5月に富山の本部施設内に移転となり、それから1年、施設は使われていません。

f:id:nekojushoku:20210418230650j:plain

久しぶりに訪れた顕真学院は、人気はまったくないものの、敷地はよく整備されていました。おそらく定期的に誰かが来て庭木の手入れや除草をしているのでしょう。ただ私が学院に居たときは、ぺんぺん草一本許されないくらいに完璧に草むしりしていましたから、それと比較すると若干荒れてはいます。

f:id:nekojushoku:20210418231059j:plain

駐車場の一部が倒木で塞がれていました。こんなのを放置するのは親鸞会の施設としてはありえないことなので、最近倒れたのかも知れません。(敷地外から撮影しています)

f:id:nekojushoku:20210418231429j:plain

自転車に乗って外出するときは、この裏手の道を通っていました。この建物ができたのは1996年、私が入学したのが1998年でしたから、入ったときはピカピカでしたが、流石に今見ると古びた感じがします。

f:id:nekojushoku:20210418231859j:plain

かつて隣には県立芦原青年の家があって、行事のときは駐車場の貸し借りなども行われていたのですが、今は移転して、跡地は造成されている最中でした。何が出来るのか。

f:id:nekojushoku:20210418232039j:plain

しんと静まり返った学院をみて、かつてはここで大勢の若者が七転八倒の日々を過ごしていたことを思うと、こみあげてくるものがあります。ひどい日常でしたが、紛れもなく私の青春の1ページでした。

f:id:nekojushoku:20210418232150j:plain

さよなら、わが青春の顕真学院。

袈裟に尿かけられる嫌がらせ…真宗大谷派とパワハラ問題

2020年4月15日、京都新聞に次の記事が載っていました。

www.kyoto-np.co.jp

 真宗大谷派(本山・東本願寺京都市下京区)で働いていた嘱託職員が、上司や同僚から嫌がらせを受けたとして15日までに、同教団を相手取り、慰謝料など300万円の損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。
 訴状によると、嘱託職員は2013年4月から総務部兼内事部で主に筆耕業務に従事していたが、上司や同僚から「気持ち悪い字」と言われ、書いた紙を投げつけられたり、無視や、袈裟(けさ)に尿をかけられたりする嫌がらせを受けた。上司に相談したが改善に向けた姿勢がみえず、職員は抑うつ状態になって18年2月ごろに休職した。同教団は使用者責任があり、嫌がらせを是正する措置を怠ったと主張する。
 真宗大谷派は「事実関係に誤りがある上、原告の申し出には真摯(しんし)に対応し、職場環境の調整に努めてきた。裁判では、当派が認識する事実関係をもとに、宗派としての正当性を主張していく」とコメントした。 

関係者に聞いたところ、この「おしっこかけ事件」、おしっこがかかっていたのは事実だそうですが、加害については教団側は認めておらず、事実関係を裏付ける証拠もなし。「上司や同僚」は特に何の処分も受けてないとのことでした。

大谷派では以前にもパワハラ問題が起きています。

www.sankei.com

これは残業代の未払いが直接の問題ですが、このことを訴えた職員に対してパワハラが起きています。

 大谷派は28年10月、未払い残業代の精算に応じることで男性と合意したが、男性は上司から暴言を吐かれたり机をたたいて怒鳴られたりし、内部のハラスメント防止委員会が12月にパワハラ被害を認定。一方で雇用契約を更新しないと雇い止めを通告され、今年3月末で退職した。

これについては被害者が講演し、その内容が書籍化されました。

www.amazon.co.jp

この事件では暴言を吐いたと言われる上司は特には降格などの処分もなく、その後も異動先で職員にパワハラで訴えられたと別の媒体で報道されています。

また、人権担当部署でも。

www.kyoto-np.co.jp

この他、認定はされなくても、教団内でパワハラの訴えがされたとの情報はいくつか入ってきています。

真宗大谷派は私の所属する教団です。そして私自身この教団で短い間ですが嘱託職員の立場を頂いていたこともありました。この教団に関わってきた人ならわかってくれると思いますが、うつ病などの心の病で離職したとか休職したとの話をやたら多く聞きます。もちろん統計をとったわけではありませんが、実感としてそう感じる人は少なくないはずです。

以前に元海上自衛官の方に、護衛艦でいじめが起きるのはなぜなのかという話を聞いたことがあるのですが、強い規範のある閉じた集団では、その規範以外のことへの善悪の意識が希薄になるのではないか、といったことを言われていました。

つまり、国と国民を守らなければならない、という「絶対的な正しさ」を共有する集団は、それ以外のこと、例えば目の前の人の苦しみや悲しみ、仕事のできない人への思いやりが希薄になるというのです。

これは、体育会系の部活や、理念の強い会社で起きるハラスメントの構造と似ています。試合に勝つ、利益を上げる、会社の理念を達成する、といった「正しさ」の前に、それ以外の善悪の判断が上書きされてしまうのです。

宗教団体でもこうしたことは起こりがちだと思います。前日の残業代不払いを訴えた職員へのハラスメントでは、被害者は「信仰心がないから残業代を請求した」と言われたことを証言しています。強い宗教的な理念が存在すると、その理念を達成するための行為が正当化され、それに従うのが当然であり、そうでないものは改心させるか、あるいは排除していいとの思いに繋がります。そして「正しい」宗教心のもとにやっており、それを理解できないのは「信仰心が足りない」のですから、加害者には罪の意識はまるでないのです。(この件でも加害者の上司は、事あるごとに「自分は悪くない、悪いのは被害者やマスコミ」といった発言を繰り返していたと聞いています。情の厚い熱心な人だと聞いています。だからこそ、相手のためにやった、という思いを否定できないのでしょう)

「宗教」という正しさは、ときに残酷です。

私達の教団は、

一切の差別をなくすことを目指しているのに、宗派主催のパネル展示から「経典における女性差別」というパネルを圧力をかかけて降ろさせ、

人間同士の争いや戦争を悲しみながら、自分たちの教団から袂を分かった人たちに何度も訴訟を起こし、

絢爛たる法要や、熱心に有名な知識人を呼んでお金のかかったイベントをする一方、過疎や貧困で潰れていく寺院は放置されています。

ただ、だからといって「こうなればいいのに」と思っていることが、様々な利害関係や伝統や法規にがんじがらめになっており、容易に実現できないことも私は知っています。宗教としての「正しさ」を背負うがゆえに出てくる自己正当化、その正当化された姿と現実とのギャップへの苦しみ。

私自身、新宗教出身という出目の問題もあるのでしょうが、この道に入って嫌な思いを随分としてきました。それは伝統と正しさを背負わざるを得なくなった人の苦悩が、異質な存在である私ににじみ出てきた結果なのかも知れませんし、あるいはこの集団への理解を拒み、順応できなかった私の非なのかも知れません。

今回の事件、「被害者が自分でおしっこをかけたのでは」との見方も一部ではされているようです。しかし仮にそうだとしても、被害者をそうさせるまでに追い詰めたものはなんなのか。また、この教団でこうまでして立て続けにパワハラ事件が表沙汰になるのは、どうしてなのか。

真宗大谷派は弁護士とともに争うつもりのようですが、そうまでして教団が守りたいものとは、一体なんなのでしょう。どうも、その前に振り返らなければならないことが、山のようにありそうですが。

びわこ文化センターで歎異抄の講座

びわこ文化センターで、歎異抄の講座第一回でした。いわゆるカルチャーセンターなんですが、そういったところで話をするのは始めての経験になります。場所は滋賀県立文化産業交流会館

f:id:nekojushoku:20210415215312j:plain

1988年開館。かなり立派できれいな施設で、そして平日の昼間だからか、あるいはコロナの影響か、ロビーにはほとんど誰もいませんでした。

この施設には実は深い思い出があるのです。

私は浄土真宗親鸞会という新宗教団体に12年間いたのですが、そこでよくこの施設を使って会長の高森顕徹氏の法話会をしていました。

当時は東京の大学に通っていましたので、日曜日にここで法話会がされるとなると、土曜日の夜に大垣行きの夜行列車に乗って、大垣駅で乗り換えて米原にようやく朝に到着します。

あの夜行列車はボックスシートで、しかも青春18きっぷ期間になるとやたら混雑していて、そうそう寝れたもんじゃありませんでした。まあでも座れたらマシで、一晩立つことも何度か経験しました。

しかも大垣駅での乗り換えがシビアで、鈍行列車で一晩明かしたあとの体に鞭打ってホームを駆け抜け、米原に降りた後はクタクタ。どこかで朝ごはんでも買いたいと思っても、米原は駅前の平和堂以外は見事なまでになにもないところでした。

当時から高森氏の法話会にはこの会場は手狭で、メインホールに参詣者をぎゅうぎゅうに詰め込んで話を聞いていたと思います。その後しばらくして、滋賀県法話会場は大津プリンスホテルに移り、ここは使われなくなります。

親鸞会をやめてもう15年経つわけですが、閑散とした米原駅前と、この会場の不釣り合いなほどの立派さは15年前と変わりません。親鸞会は若者の声が絶えてすっかり元気がなくなり、私は僧侶になって同じ会場で話をしています。

参加者は9名でしたが、どうも聞くところによると過半がお寺関係の人らしいとのことで、文化センターという性質上一般の方が来るのだろうと思っていましたが、そうでもないみたいです。どちらかというと、文化センターで仏教の話をして人が来るのは都会で、この米原という土徳の地では、法を聞きたい人は寺に行くのでしょう。

f:id:nekojushoku:20210415220711j:plain

あと5回、ここで歎異抄を話すことになります。

SNSからちょっと離れることにした

いままで、随分SNSに時間を費やしてきた。最初にハマったのがniftyのフォーラムで、その後2chで(これはSNSと言うのかどうかは微妙だけど)、その後mixiで、そしてTwitterで、いまFacebook

自分は人見知りする性格なので、ネットでの浅い付き合いはそれなりに性に合っていたのだけど、なんだか最近恐ろしくしんどい。昔はそうは思わなかったのだけど、自分が変わったのか、あるいはSNSが変わったのか。

珍しくもない日常が写真に切り取られてネットに上がり、「かわいー」「よかったねー」「おめでとー」とリアクションする人々、平和な生活を演ずる表層と、それを無邪気に称賛するコメント。そういうのを見るのが、限りなくめんどくさく、しんどくなってきた。

そういえばそんなものはniftyにも2chにもなかったな。Twitterでは日の丸アイコンの人たちにほとほと疲れた。でもそういう人を全部ブロックして居心地のいい世界を作るのも、なんか違う気がする。

つまり、疲れた。明らかに情報過多で、いろんなことを知りすぎて、それでいてまったくここは空虚なのだ。

でも、なんか自分の書きたいことを書く場もほしいので、Facebookとかは行事の告知なんかにとどめて、これからはこのネットの片隅に書きたいときにシコシコ駄文をかくことにするのだ。のだのだ。

以前なんかのネットで見たのだけど、旧式のビデオカメラを使って、声も自分で演じ、ほとんど手書きで膨大なアニメを制作している人のインタビュー記事が載っていた。そのアニメは誰が見ても世に出せるような水準のものではないのだが、その人は全く意に介さず創作を続けていて、それは例えれば排泄行為みたいなものだと言っていた(ような気がする、違ったらごめん)。

人間はそうやってどっかに書いたり言ったりしなければ抱えきれないものを抱えて、生まれて死ぬのだろう。