ねこねこふわふわな住職

真宗大谷派玄照寺 瓜生崇のブログです

私達は陰謀論と向き合うことができるか

最近、陰謀論にかかわる相談を受ける。陰謀論FacebookTwitterなどのSNSを観ると頻繁に目にするが、私に寄せられるのは家族がそれにハマってしまったとの相談である。SNSではアンフォローするなりブロックするなりすれば実害はないが、家族となるとそうは行かない。まして、最近はコロナやワクチンについての陰謀論が目に付き、この陰謀論に染まった人を近くに抱えると、命に関わる問題ともなりうる。

私自身はカルト宗教についての相談を受け続けて15年になるが、この問題はカルトとかなり似ていると思う。その経験から今の思いをまとめてみた。

陰謀論者は不真面目ではない

この課題から思い出すのは、2011年の福島第一原発の事故での経験である。当時私はまだ僧侶になりたてであったが、私のいた教団では、全く科学的な事実に基づかない、極端な放射線などの健康被害を語る人が多くいた。事故からの汚染が今後私達にどのような影響を及ぼすかは不明な点が多く、不安はわからなくもなかったが、あまりに偏りすぎているように思った。

その誤解を解こうと、これらの人と膝を突き合わせて長く話したが、完全に徒労に終わった。なぜなら、公開されている測定結果や、長い時間をかけて明らかになった科学的な事実を話しても、彼らには全く受け入れられなかったからだ。

彼らにとってのそれは政府や東京電力によって操作されたものであり、信用できないとされていた。彼らは多くの専門家が関わった発信源のはっきりしているデータより、誰が作ったのかも不明なネットの情報をずっと重視した。彼らは実にまめにそれらのネットの情報を集め、危険性を発信し続けた(煽ったと言ってもいいかもしれない)。

なら彼らは不真面目だったのか。そんなことはない。彼らは実際に現地で放射能の恐怖に怯える人に向き合い、移住を手伝い、移住できない人に対しては、西日本の「汚染されてない」農作物を集めて、現地に地道に送り続け支援をした。少なくないお金と時間を費やして、自分を犠牲にしてやりつづけた。

私はとてもこんな事はできないと思った。本当にすごいと思った。私なんて彼らに比べたら何もしていないに等しい。真摯で真面目で利他的なのだ。そして賛同者が集まり、現地の人々の苦しみを実際に聞いて応えているから、更に自分たちのやっていることの正しさを疑えない。

これは、私が向き合ってきたカルト宗教の信者たちも同様で、彼らの多くは真面目に人を救おうとして信仰に向き合っているのだ。地下鉄サリン事件の実行犯であった林郁夫氏がもともと医師であり、人を救いたくても救えないこと悩み、その思いからオウムの教えに関心を持ったことはよく知られている。私自身が会ってきたアレフの信者も、人を助けたいとの思いから入信した人が多かった。

陰謀論者はその説をSNSなどで拡散したり、周囲の人を積極的に説得する傾向にある。切ないほど一生懸命だ。陰謀は自分の頭の中だけにしてほしいと思うかもしれないが、看過できない「悪とその陰謀」の存在を知って、どうにかしてこの「真実」を人に伝えて、陰謀を阻止したいとの思いがあるのだろう。みんなを助けたいのだ。助けたいから衝突も辞さずに伝え続ける。

陰謀論者はちゃんと考える力を持っている

陰謀論者が不真面目でないのなら、彼らには思考力がないのだろうか。現実にそのような印象を持つ人は多いだろう。知的に劣っているから、陰謀論などに騙されるのだと。

しかし実際のところ、理工系の大学教授など科学的な思考を十分に学んだ人や、大企業で管理職や研究職を経験してきた人が、陰謀論を積極的に発信している様子を見ることができる。先日も私と同年代の有名私立大の大学教授が、ワクチンにおける陰謀論的なデマをSNSで拡散していて驚いた。

私が向き合ってきたカルトも同じだった。しっかりした学歴を持ち、知的探求の営みを十二分にしてきた人が次々とカルトの世界に入っていった。考える力がないのではなく、考える力を十分に持ちながら、なぜ陰謀論やカルトの教義を信じるのか。

私の友人が一時期いわゆる「ネトウヨ」(この言葉は侮蔑を含むので使いたくはないが、あえて)になった事があった。彼とは従軍慰安婦南京虐殺について随分話し合い、もちろん最終的に合意には至らなかったのだが…感心したのは、彼らの言う「従軍慰安婦南京虐殺否定論」にはそれなりの根拠があるのだ。決して捏造とデマが大半を占めているわけではない。

ならばどうして否定論者になるのか。私達は歴史的な事実は一つであって、その事柄の周辺の証言や資料も、常にその一つの歴史的事実に合致すると思ってしまう。でも、実際はそうではない。特に近代史は様々な立場からの証言や資料が一つの事柄の周囲に交錯しており、それらが別々の方向を向いているように見えることは珍しくない。

となると、様々な立場における「ファクト」を、一定の主張に沿うように取捨することで、虐殺を否定する根拠だけを揃えるのはそう難しくはないのだ。

ワクチンなどの陰謀論も、あからさまにデマや荒唐無稽としか言いようのないものもあるが、実際のところ大半はそれなりに「らしい」裏付けが存在しており、そうでないデータや論理は「陰謀」というフィルタで濾されてしまう。現代社会の様々な事象は高度に複雑化し、一人の人間が追いきれないほどの研究や考察で埋め尽くされている。そこから一つの「陰謀」を元にしたシナリオが生まれ、ネットの集合知によってそれらしい「ファクト」が発掘され、シナリオは強化され発展していく。疑似科学についても同様だろう。

これは陰謀論だけに起こる現象ではない。去年くらいに、どうして東アジアではコロナの感染が抑えられているかとの原因として、BCG接種率など様々な仮説が提示され随分広がった。「私達は大丈夫」という希望的なシナリオが集合知によって強化された出来事である。もう今やそんなことを言う人もいなくなったが、自分たちが求める結果に合わせて根拠を集めていくのは、私達もよくやることだ。

ナチスはかつてアーリア人こそが最も優れた人種であるとしたが、それを多くの科学者が研究によって裏付けようとし、それはナチス民族浄化の根拠として利用された。彼らは真面目に科学者としての矜持を持ってそんなことをしていたのだ。

科学や歴史や、いや経済も、本当にそれを知ろうとすると、それらを説明する事柄があまりに複雑に絡み合っている事実を知ることになる。そうなると私達はそれらを取捨して明快に説明するための「シナリオ」が欲しくなる。

しかし本当は、複雑なものを明快なシナリオに再編するのではなく、それを複雑なままに受け取り、新たな事実の発見により、どんな定説も覆される可能性を持つことを自覚するのが本当の知的営みであり、陰謀論の対局に位置する見解であろう。しかしそれはますます難しくなっているように思う。

感染初期に語られた、「新型コロナウィルスは武漢のウィルス研究所から流出して、地中国共産党はその事実を隠蔽しようとしている」などという情報は、出始めのときはこれこそ分断を生む陰謀論として退けられていた。しかしそれが今になって再び注目を浴びるなど、一体誰が予想し得ただろうか。

私達は本当に正しいのか

天動説(地球中心説)という宇宙論がある。地球を中心にその周りを太陽や惑星がまわっているとの見方だが、おそらく本稿を読んでいる人の殆どはこれは古いパラダイムであり、地動説(太陽中心説)こそが正しいと思っているだろう。

しかし、実際にこれを観測によって確かめた人はごく僅かだ。一般の人にとっては、そもそもどんな観測をしたらそれが明らかになるかもわからないだろう。

よくある誤解として、当時のキリスト教的世界観と天動説の親和性が高いから天動説が信じられたのだと思われるが、実際はそれだけではない。最も大きな理由は、天動説が当時の観測技術で見える宇宙を最も合理的に説明できたからである。当時真面目に観測して考え尽くした結果がこうだったのだ。

こんな基本的な宇宙論すらその背景は複雑である。まして現代語られる社会的科学的事象を観る時、ほとんどの人はその真偽を自ら考えて結論など出しておらず、「教科書にのっていて、テレビで大学の先生がそう言っている」くらいの理由しかなかったりする。私達は陰謀論者は限りなくインチキであり、彼らと比べて全く自分らの方がずっと正しい思考をしていると思っているが、実際はこんなものだ。

となると、中部大学の元大学教授がYoutubeで配信する謎の情報を血眼で見たり、あるいは誰が書いてるかわからないブログの情報を熱心に収集している陰謀論者のほうが、本当は考えているのかも知れない。だからこそ彼らは私達を「政府やマスコミに騙された哀れな情報弱者」扱いするのだ。

真面目にしっかり物事を見たいと思っている人が陰謀論にハマってしまう理由は、このあたりにあるのではないか。

まず自分が揺らぐ

以前にあるカルトに入った信者が私のところに相談に来て、どうして自分がその教団に入ったのか、その教団の教えはどんなものか、どうしてそれを信じるのかを4時間位一人で喋り続けたことがある。

私はそれを(内心うんざりしていたことは認めるが)一生懸命聞き続け、頷いて、わからないところを丁寧に質問した。そうすると彼は突然泣き出し、今まで家族も友人も誰も聞いてくれなかった、教団の人以外で初めて聞いてくれたのだと言っていた。その後も彼とはメールで連絡を取り続け、数年ののち脱会した。

彼の家族や友人は、彼は教団に騙されていると決めつけ(無理もないことであったが)、教義を話すとすかさずその矛盾点を指摘し、脱会を説得した。次第に彼は教団の人としか話をしなくなり、教団に矛盾を感じたときには誰も相談できる相手がいなくなっていた。

私はそんな人を何人も見てきた。

私達はファクトを持って陰謀論をねじ伏せられると思っている。しかし、100%あなたは間違っているという主張と、100%私は正しいという主張がぶつかっても、そこに対話は生まれない。

本当は、私達が正しいと思っていることは、いつひっくり返るかわからないし、私達が彼らと比べてより理性的で論理的だと言えるわけでもない。だからこそ、ほんの少しの歯車の掛け違いで、同じようなことを信じていたかもしれない。陰謀論に向き合うのは、「正しさ」ではなく、私もまた間違うかもしれないし、間違っているかもしれないとの思いだと思う。

もともと、科学はそういうものだ。矛盾と思われるかもしれないが、将来新たな理論や観測結果に覆される可能性を持つものこそが、科学的なファクトである。陰謀論にはそれがない。理論に合致しない情報があっても、この情報は陰謀だ、というフィルタで濾すことができるから、どうやっても覆る可能性を持たないのだ。

だから陰謀論と科学的ファクトの違いは、正しいか正しくないかではない。それが覆る可能性をその理論の中に持っているかである。

とは言っても、実際に陰謀論を聞き、自分の正しさを疑うのは大変すぎると思う。それが家族ならなおさらだ。私に相談をしてきた人は、家族が陰謀論をずっと主張し続けることに疲れ果てていた。そんな人に話を聞いてあげてほしいと言うのは酷すぎるし、実害も多いだろう。だから相手の主張を断固として拒否して聞かないことも、現実的な解決策かもしれない。

ただ自分はカルト宗教の信者との対話を長年やってきて、自分が揺らぐことで相手もまた揺らいでいく経験を幾度もしてきた。困難ではあるが、なんとかそうやって向き合うことはできないか、模索している。

ああ、もっと率直に書いたほうがいいだろう。もちろん陰謀論のバカバカしさを説くのは大切なことで、これから陰謀論に染まる人を確実に減らすだろう。でも一旦陰謀論に染まった人との対話の道においては、あんなのウンコでインチキだと書いて言って戦っても何も得られなかった。きっとそうじゃない道があるはずだと思っている。だから、私は、クソみたいな陰謀論をしつこく拡散する人をバカにし、見下す自分といま必死に戦っているのだ。

在家出身者は差別されるか

私は新宗教で講師をした後に、一般企業で働いて、僧侶になって入寺した、ちょっと異色な住職である。いわゆる「在家出身」と言うのだが、もともと私がいる浄土真宗は在家仏教なので僧侶は全員「在家出身」のはずである。しかし現実的には寺生まれでない僧侶にだけ「在家出身」とのレッテルがつく。まあこの辺は変だけどしょうがない部分なんだろう。

で、在家出身に対する差別とかありましたかと聞かれると、思い出してもあんまりないなぁとしか言いようがない。お寺で生活したことがなかったので慣れるのに時間はかかったし、先代の住職と一緒に生活して学ぶこともできなかったので、何も知らなくていろいろ恥をかいたことは事実だけど、それは差別とは言うまい。

無論、差別的に「彼は在家出身だから〇〇なんだ」と言われることもあったかも知れないが、そんなことはだいたい陰口で言われているだろうし、直接に聞くことはなかった。もちろん、直接に浴びせられたという人もいて、陰口だろうと直接だろうと本来は絶対にあってはならない事だと思う。

まれに自分は伝統のある寺院の血筋なんだとか、なんかの血統を受け継いでいるんだ、的なことを鼻にかける人も無いわけではないが、そもそも仏教ではその手の価値観を全否定しているし、多分あまりいい友だちにはなれそうにないので、最初から近づかなければいいだけである。

寺社会って入ってみると、ここが恐ろしく均質な集団だとわかる。同じ宗教的信念のもとで育てられて、地域社会で寺の人として見られ、宗門の運営する学校や大学に行く人も多い。こんなことを数百年続けてきたからだろうか。似たような考え方をする人ばっかりであることに驚く。

なので、この組織の生存戦略とでも言ったらいいのか。寺社会の外から入ってきた人にちゃんと役割を与えて、異質なものを積極的に受け入れる傾向は実はかなり持っている。その一方でそれが行き過ぎたとき、異質なものを恐れて排除しようとする力も生じる。私が所属している教団は真宗大谷派だけど、常にこの二つの力が同時にはたらいていることを、身の上に感じつつ生きてきた。引っ張られもしたし、排除されたりもした。

ここの人たちは数百年の間、家族親戚を二つくらいたどったら、ほとんどみんなカバーされてしまうのではないかというくらい密な血縁関係を維持して、宗教という砦の中で生を重ねてきた。

嫌だなぁと思うこともあるし、しんどさも感じているが、数世紀に渡って七転八倒して教えの灯を守ってきた人たちが、流れ者のようにこの世界に現れた私を、なんとか受け入れてくれている(そうじゃなかったらすみません)。

ここはだいぶ淀んではいるし、全く居心地も良くないのだが、この教えを受け継ぐ人たちの流れの中にいさせてもらえることは、悪くないことだと思ってる。

(ちなみに、新宗教の出身ということでならば、差別的な扱いを受けたり、あるいはSNSで心無い言葉を浴びせられることは結構、いやかなりありました。でも一番イヤだったのは、私の過去を知ってそれを心から哀れんでくれる人でした。人は親切心から人を傷つけるのだと、心底知らされた経験です)

僧侶の正しさとナイーヴさ

以前にプロテスタントの牧師が、「聖⭐︎お兄さん」という漫画に描かれるイエス像に大変な不快感を表していたのを見たことがある。確か、Twitterだった。

って思って検索したら案外簡単に見つかってしまった。

私は、この漫画を少しだけ読んだことがあり、案外正確な仏陀の描写に感心した記憶があるのだが、許せない人もいることは容易に想像できた。宗教ってのはそういうものなのだ。自分の人生の最も大事な部分を宗教に担わせている人がこの世界にはたくさんおり、私達はそれを茶化す「表現の自由」を手にしてはいるが、同時にそれをする時には少なくない人を傷つけ、また批判を受けることも覚悟しなければならないだろう。

この問題の難しいところは、たとえ宗教者であってもその感覚がそれぞれ大きく異なることで、例えば以前になにかのパフォーマンスイベントで僧衣が使われた時に、私の知り合いは大変な怒りを表していたが、私は僧侶であるのに衣にはほとんどこだわりがなく、正直なんとも思わなかった。でも、彼を狭量だとは思わない。

ここからが本題なのだが、私達僧侶の世界では、コロナ禍でYoutubeやクラブハウスなどで発信する人が随分増えた。その一つを見た私の友人が、一種のゲームのように法話を扱い、内輪でふざけた感じで発信がなされていることについて、不快感と悲しみを表明した。

それについて、関係する僧侶の人たちから随分な反発が出てきたそうである。それらは直接に友人に寄せられたものもあれば、いわゆる「エアリプ」の形でなされたものもある。

実のところ、私も法話を動画配信しているが、既存の教義理解への批判を含むものもあるので、それらへの反発はかなりある。悲しいと言ってきた人もいた。正直それが続くと凹む。もう配信なんかやりたくなくなる。でも、人に悲しみを与えているとの事実は受け止めている。いや受け止められているかどうかは自信はないが、少なくともそれを覚悟してやってはいる。直接寄せられた批判にはかならず答えているし、そうでないものもなるべく読むようにしている。

宗教とは、そういうものだ。自分の内面の深いところに触れる営みであるがゆえに、その解釈、思い、行動、それらがすべて、人を救うことにもなるし、傷つけて悲しませることにもなる。自覚しようとしまいと、どこかで私達はその重荷を背負うことになる。

その恐ろしさを重たい覚悟として背負いながら、どこかで折り合いをつけて、反省したり怒ったり、自信喪失と驕慢の間を行ったり来たりしながら、私はこの道をおどおどと歩んできた。

別に僧侶がどんな法話をしても、どんなおふざけをしても、構わないと思う。嫌なら聞かなきゃいいだけなのだし。

でも、自分たちのやっていることの正しさを疑えず、悲しいという言葉もはねつけ、指摘した人を批判し、身内で慰め合うようなことをしてしまうのは、いくらなんでもナイーヴすぎるではないか。真面目に一生懸命やっているからこそそうなるのかも知れないが、人間は「真面目に一生懸命」というところに最も迷うのだから。

「素晴らしい教えを一生懸命伝えてみんなを救うんだ」それは高い志であるがゆえに、仲間を集め共感という砦を作ってその志を守り抜こうとする。でも、本当はそんなもの、一度崩されたほうがいい。私はカルトの問題を長く取り組んでいるから、それがよくわかるのだ。その砦が人を救うだけでなく、分断と悲しみも与えていることに。

それにしても、こういうことを書くと思うのだけど、私自身も自分の正しさを誰かに裏付けてほしくて必死なのだな。こうやって書いている言葉が、そのまますべて自分に突き刺さってくる。

法話を批判するということ

前回、「即興法話」についての意見(いや、批判と言ったほうがいいかも知れない)を書いたら、意外なことに随分反響をもらってしまった。

なぜ意外かというと、このブログは何しろ一日数アクセスくらいしかないので、多くの人に広めたくはないけど、自分がどうしても書きたいことを書くために使っていたから。かといって匿名は卑怯な感じがするので実名にしている。随分と歪んだ動機のブログだと思う。

そして案の定、よくぞ言ってくれたとの反響もあれば、どうしてそんな事を言うんだ、頑張ってるんだから暖かく見守ってあげたらいいじゃないか、といった反響も頂いた。

中でも、私が自分の思っている「正しい法話」以外は許さない人間で、そうじゃない法話をさばいているのではないかとの声もあった。以前にシネマ法話(知りたい人は適当に検索してほしい)を批判したこともあり、自分が正しいと思っている法話以外を厳しく批判する人間、との印象が出来上がってしまっているのだという。

これは、本当にそのとおりなので、反省するしか無い。そして私自身が自分の法話を動画サイトなどで多くの人に晒している故に、同様の批判をずっと受けてきた。その批判から貴重な学びを得ることもあるが、「自分が思っている法話以外は許せない人」からの批判にはホトホトしんどい思いをしてきた。自分の嫌がることを人にしているわけである。自己嫌悪だ。

それが分かっているから、人が来ないこのブログでひっそり書いたのだけど、少なくない人がいま危惧しているところに、その内容が触れたのか、不思議に読まれてしまったのだ。

その危惧とは、お寺を開くとか、初心の人にわかりやすい話をという、おそらく誰にも反対できない強い理由によって、宗教の最もコアな部分が少しずつ溶かされているのではないかとの、懸念ではないかと思う。

おふざけ半分みたいなお坊さんのコンテンツが溢れるようになって、それに興味を持ってこの世界に入ってきてくれる人はたしかにいる。でも、やはり思ってしまうのだ。それはかえって、本当に求めている人を遠ざけてしまうのではないかと。

そんなのは心配するほどのことじゃないし、嫌なら見ないで自分の道を歩めばそれでいいのだろう。それぞれの人にそれぞれの役割がある。そう言われてみれば身も蓋もない話である。

ただ、浄土真宗という教えが、安易な安心と癒やしを仲間内で共感していくような、そんな存在に次第になりつつあることへの危惧。そうは言っても、結局自分を限りなく正しくしていて、自分に合わないものを間違ったことにして、それを正したいのだとの驕慢に、がんじがらめになっているのではないかとの恐れ。

なんとも、どうしていいのかわからない。言いたいことはあっても、こんな世界の片隅でしか書けない、どっちつかずの思いを抱えた悲しみを、どうしたらいいのだろうか。

即興法話(お題法話)について

こんな記事を見た。

luhana-enigma.hatenablog.com

私もこの「即興法話」を見たことがある。同じように悲しくなった。どうしてそう思うのか、自分の今の思いを書いてみることにする。ここは読者が極端に少ないので、頑張ってこの法話形式に取り組んでいる人たちに水を差すことにはなりにくいだろうし、書いておけば必要な人には届くだろう。

断っておくが、私自身は人の法話をあれこれ評価できる立場のものではない。ただ、18歳のときから仏教を聞き続け、23歳のときから24年間法話をしてきたので、経験だけはそれなりにある。何千回と話してきた。逆に言えば、私が法話を語ることのできる根拠は、それしかない。

即興法話とは、「お題」としていくつかの単語をもらって、それを使って即興で法話するもの。落語の三題噺の法話版である。聞きたい人はYoutubeで検索したらいくつか出てくるので、それを聞いてもらえばいいと思う。

即興法話クラブの説明文には、こんな記述があった。

即興法話は、布教使の鍛錬方法の一つです。客席からお題となる言葉を数個いただき、その言葉を必ず通って即興で法話することで、法話現場でのトラブル対応力や、話の筋道を組み立てる力を磨くものです。鍛錬方法ですので、本来なら披露するようなものではありませんが、上手くいけばありがたいし、上手くいかなくても楽しい法話になりますので、エンタメとして楽しんでいただきたいと思います。録音禁止‼︎他言無用‼︎抱腹絶倒‼︎南無阿弥陀仏‼︎

即興法話倶楽部 Club on Clubhouse - Followers, Members, Statistics

なるほど、即興法話はエンタメなのだろう。

私がいくつか聞いたときも、僧侶が集まってお題をネットで集め、それを工夫して一つの法話を組み立てていた。うまくいけば拍手喝采だし、途中で空中分解すれば笑いのネタになる。法話を大事に思ってきた人には、見てられないほど悲しい光景だろう。しかし、これはエンタメなのだ言われたら多少は頷けるかも知れない。

かつて法話には確かにそんな一面があった。説教師は情感たっぷりに聞かせる法話を行い、聴衆はそれに酔った。寺で報恩講があると参道には出店が立ち並び、本堂は人で溢れた。人気の説教師は有名役者並みの収入があったと聞く。そういう時代が確かに存在し、いまも年配の人がその様子を懐かしく語ることがある。

しかし、そんな光景が続いたのはせいぜい昭和の半ばくらいまでだった。当然のことで、法話よりずっと面白いコンテンツがテレビなどで大量に供給されたからだ。結果として涙と笑いで人気を得るタイプの説教師は次第にいなくなった。

そんな時代に戻りたいのだろうか。

本願寺派のある和上が、昔はお参りが多かったけど、テレビやラジオが普及してからお参りが少なくなったと嘆く人がいる。でも、昔だって本当に仏教を聞きたい人はそんなに多くなかった。テレビやラジオの代わりに法話を聞いていただけだと言われていた。

今、浄土真宗の一部は「仏教のエンタメ化」に突き進んでいるように見える。このままでは寺の危機だから、若い人に楽しんでもらえるように、裾野を広げなければ、楽しくしなければ、わかりやすくしなければと、ある意味、熱に浮かされていると言ってもいいかもしれない。

しかしその中身を見てみると、坊さんが集まって内輪で笑い合うようなものであったり、あるいはいわゆる「楽屋ネタ」としての「坊さん」のコンテンツ化であったり、「癒やし」や「居場所」の提供であったり。こんなものはおそらく一時的に流行ることはあっても、消費されつくしたら終わりだろう。

そして、数人のお参りしかなくても長年続けてきたような法座はなくなり、外に出てチラシを配ったり、新しい場所を開拓して法話を始めたりといった営みは続かない。しんどい思いをして、本当に聞きたい人を見つけて地道に伝えていこうといった、目立たない取り組みをする人はとても少ない。

仏教を伝えるのに苦しい恥ずかしい思いはしたくない。でも目立ちたい、人を集めたい、法話に呼ばれたい、そんなところが目的化しているように思えて仕方がない。もちろん、私も含めて、人である以上はその思いからは逃れられないと思うのだが、それに少しは恥じる思いがあってもいいのではないか。

まだ書きたいことはある。お題をうまく法話に散りばめて、最後に阿弥陀さんの救いに上手に結びつけて悦に入っている姿には、どんな話題だろうと巧みに例話にして、仏法を話しできるという自信を見て取れる。この研鑽の目的には、その自信を得るためという一面もあるのかもしれない。

しかし、伝えたいことが先にあって、それを伝えるための例話ではないか。即興法話ではそれが逆である。お題をうまいこと法話に結びつけることが目的になっていて、伝えたいことが先にあるのではない。それが仮に訓練として「話の筋道を組み立てる力」になるとも思えない。どう贔屓目に聞いても話の寄り道がうまくなるだけだろう。

仏教は例話の宝庫である。釈尊は譬喩の名人だった。でもそれは、言葉にならない真実を、どうにかして言葉にしたいという思いからの譬喩だ。

私達が法話に取り組む時、どれだけ悩んで言葉を紡いでも、それがそのまま真実ではないことに苦しむ。仏教は聞けば聞くほど、わからない自分が知らされる。それが仏教の歴史の中で諸師が共通して持ち続けてきた、無仏の時代に生きる僧侶の悲しみである。わからないものが法を説くことの恐ろしさである。その事実の前に私達は謙虚にならざるを得ない。

即興法話にはそれが感じられない。うまいこと話せばありがたがって悦に入るし、だめならお笑いとしてエンタメになる。誰かが型をこしらえたジグゾーパズルに、ワイワイ言いながらちょっと変わったピースを突っ込むだけの営みに見える。

私の先生は、50歳のときに僧籍をとり、滋賀の門徒数20軒もない小さなお寺で、毎月2回欠かさず朝昼の定例法座をされてきた方だった。最初は一人二人、いや誰もお参りに来ない日も多かったそうだ。普通はそんな日が続いたらやめてしまうだろう。でも先生は続けられた。なぜなら本堂をいっぱいにするのが先生の法話の目的ではなかったから。法話は先生にとっての聞法だったからだ。

結果として先生は400回以上の定例法話をそこで重ねられるのだが、次第に聞く人は増えていき、交通の便の悪い田舎の本堂は毎回一杯になり、各地から聞きたい人が集った。ここで初めて仏法を聞いたという人もいた。

先生のお話は決してわかりやすくはなかった。厳しいことも随分言われた。いつもお聖教の言葉をぎっしり印刷したプリントを配って、その言葉を丁寧に説明した。ご自分の至らなさ、不甲斐なさを決して隠そうとはしなかった。わからないことはわからないと正直に言われた。私達は先生の話だけではなく、その姿からも仏法を聞いていたのだと思う。

先生の法話は、泣ける人情噺や気の利いた譬え話を駆使して、うまいこと話して感動する法話とは全く正反対のものだったが、聞きたい人が絶えることはなかった。私は、これが正しいやり方であり、みんながここを目指すべきだとは思わない。でも、本当に仏教の裾野を広めたいと思ったら、訓練して巧みな話ができるようになることだけがその道ではないことを、知ってもらえたらいいと思う。

親鸞会の最後の新勧合宿

昨晩、新勧合宿の夢を見た。新歓合宿じゃなくて、新「勧」合宿。歓迎じゃなくて勧誘。親鸞会の学友部でゴールデンウィークに行われていた合宿で、4月に勧誘した新入生を山奥の合宿場などに連れて行って、5~7日くらいの日数拘束して、教えを叩き込む。そういうものである。

学友部の新入生勧誘は、全てこのゴールデンウィークの合宿に向けて計画が立てられていた。合宿の参加人数の目標が3月にたてられ、いつどこで勧誘して、どんな行事を企画して、どんな話をするかがさかのぼって決められた。幹部は一ヶ月間、この合宿参加の確約数という数字にとことんこだわりながら、新入生の状況を一人ひとり把握し、死にものぐるいの活動をすることになる。

そんなことを、学生時代に4回、親鸞会の講師になってから6回やった。私は学友部の担当ではなかったのだけど、毎回手伝いに呼ばれて、ゴールデンウィークまでの間、学生の先頭に立って勧誘活動の指揮をとり、合宿では講師として話した。合宿所は最初は山中湖で、次は尾瀬、最後はどこだったか忘れたが、長野の青年の家的な施設だったと思う。

昨晩見たのはその時の夢だった。長野の合宿所で一生懸命に講義をしている夢だった。合宿の効果は絶大だった。若い人が一週間近く寝食をともにして、人里離れた場所で毎日教義を聞いていれば、どんな人でも簡単にひっくり返る。人の精神なんてそんなものなのだ。簡単に影響されるし、すぐに染まる。自分はそうではないと思いこむことはできても、現実にはそれぞれの環境の中で誰しもがなにかに染まっている。

合宿や、大きな集会、ありったけの感情を込めた話、真剣な眼差し、そんなもので、いとも簡単に感動で胸が一杯になる。あらゆる宗教や政治がその手のものを利用する。私がいる真宗大谷派だって例外じゃない。親鸞会ほど露骨にやらないだけで、似たようなことをやっているのだ。うちの宗派の大法要だけは違うって? それならナチスの大会の映像でも見てみたら良い。荘厳さの演出、権威者の演説、会場を埋め尽くす人、それに酔う人たち。その規模や出来に差はあっても、方向性は大して変わらない。

問題はそうした影響によって受け付けられた価値観を、なにかの超越的な力による信仰の表れと勘違いすることだ。私自身も親鸞会にたときは、次々と目の色が変わっていく新入生を見て、これが阿弥陀仏の本願力だと思っていた。その背景には、自分に生じた信仰が阿弥陀仏の本願力によるのだと思いたい感情がある。これが単なる環境による影響だとは受け入れたくないのだ。

当時の私は、阿弥陀仏の本願をこの新入生に伝えるんだと必死に活動していた。でも、途中で気づいてしまったのだ。私は結局、こうした影響力の渦の中に飲み込まれただけの人間であって、親鸞会という教団が真実である証などどこにもないのではないかと。そう思って親鸞会からの脱会の準備を進めていた最後の年に、例年の通り合宿の講師に呼ばれた。こんな欺瞞に満ちた教団やめてやると思っている人間が、学生を前にして親鸞会の教義を一週間近く説かなければならない。

そんなこと出来るわけ無いと思ったのだけど、恐ろしいもので、ちゃんとできてしまった。思ってもないこと、信じてもない宗教の話を、人はできてしまうのだ。最後まで、計画通り、きっちりと。そのことが自分には恐ろしかった。

そしてそのときに私の話を一生懸命に聞いていた人たち、私の話を新入生と復習していた先輩の学生たち、そうやってみるみる変わっていった新入生、それらの人が未だに脳裏に浮かんでしまう。あの最後の合宿。気分転換に外の広場で講義をしたり、森を散歩したり、夜冷えたときにスチームの暖房がなかなかつかずに難儀したことや、山奥で携帯の電波が届かないので、電波の届く丘までみんなで登って一斉にメール受信したこと。そんなことが、いまも鮮明に記憶に残り、たまにこうして夢を見る。

目の前の人を最後まで親鸞会に引っ張りながら、なお私は裏切ってやめていくのだと。その苦悩がもう15年も経つのにこうして私を苦しめていく。

これは、なんなのだろう。いつ消えてくれるのだろうか。

高校時代にバイトしてコンポを買った話

このブログは一日に大体10人くらいしか見てないっぽい。この過疎っぷりが嬉しい。何の反応もない代わりにクソリプも来ない。そしてどうでもいいことを平気で書ける。

今日、雑談の中で学生時代のアルバイトの話になった。私は高校時代にファミレスでバイトをしていた。時給は最初650円で、やめるときには750円だったと思う。飲食店のバイトはホントきつかった。今でも飲食店で働いている人を無条件で尊敬します私は。

バイトをした理由は、ソニーのコンポを書いたかったからだ。当時14万円した。私はクラシックが好きで、どうしてもどうしてもいいオーディオでクラシックが聴きたかった。マーラーが聞きたかった(当時好きだった)。そんで、死ぬほどバイトして買った。うれしかったな。

でも、まあなんというか、狭いマンションだったしそんなに大きな音は出せないし、でかいスピーカーはかさばるし、微妙に後悔の念が溢れてくるのだけど、これを買ったのは良いことなんだと必死に自分に言い聞かせたのだ。大体、14万円のコンポを買うのに200時間くらいはあのきついきついファミレスのバイトをしたことになる。今思うとどう考えても割に合う仕事じゃないような気がする。なんであんなもんを買うのに200時間も働いたんだろう私は。

確かに音は良かったけど、別に前に使っていたラジカセで十分じゃねぇか。この音の違いになんで14万円も出したんだろう。ものすごく調べてカタログを目があくほど見て買ったのだけど。若いってことはそういうことだったのだろうか。

で、すっかり中年になった私は最近スマホを買い替えたのだ。XiaomiのRedmi note 10 proという、恐ろしくカメラの良いスマホで、猫の毛一本一本までむっちゃ鮮明に撮れる。うっひゃー、これすごく良いじゃんあははははって思ったんだけど、そんなに猫がきれいに撮れたって、なんか意味があるのかと思って虚しくなってきた。第一目の前に猫はいるわけだし。まあこれは安かったからまだいいんだけど。

以前に友人に、なんでiPhone買うのって聞いたら、動作がサクサクなんだよーお前の中華スマホとは違うんだようっひょー、と言われて、それなら比較してみようと当時持ってたファーウェイの安物のスマホと比べてみたら、たしかにコンマ1秒くらい向こうのほうが早いような気がした。でもまあ、値段が10万円くらい違うんだ。確かにサクサクだけど、この違いに10万出すのって何なんだろうとか思ったり思わなかったり。(だいたいさ、iPhoneって使いにくくないですか?)

現代社会では沢山の人に仕事を作って人生を充実させるために、ほんのちょっとの違いや、どうでもいい性能の差を延々と作って、そのために大げさな感嘆と自慢が響き渡り、エモい写真がSNSを埋め尽くし、働く意味と消費する楽しみを必死に与え続けるのだろう。ウンコみたいにどうでもいいことである。

ああ、Redmi note 10 proはとてもいいです。画面がでかくて老眼に優しい。動作もサックサクで、新しいAndroidはむっちゃ使いやすい。やっぱり新しいスマホはいいね!!